すべてが新しかったエンタツ・アチャコ。ドラマ「わろてんか」で注目、漫才の歴史 [近代編]

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すべてが新しかったエンタツ・アチャコ。ドラマ「わろてんか」で注目、漫才の歴史 [近代編]

前回は伝統芸能としての「万歳」の、平安時代から現代に至るまでの長い歴史を見てきました。今回は本題である「漫才」が産声を上げる瞬間をのぞくため、時計を明治時代に巻き戻します。万歳という芸能が枝分かれをはじめたのが明治中期なのです。その枝先で咲いた花が「しゃべくり漫才」でした。

万歳の近代化は名古屋からはじまった?

古来の神事としての万歳を「古典万歳」とするなら、明治以降に寄席で演じられた万歳は「近代万歳」といえるでしょう。

近代万歳の立役者となるのは、大阪の芸人「玉子屋円辰(たまごや・えんたつ)」「砂川捨丸(すながわ・すてまる)」「横山エンタツ・花菱アチャコ」の三組。というのは有名な話ですが、実は三組が登場する前に近代万歳の礎となった芸能がありました。尾張万歳の演目の1つ「三曲万歳」です。

尾張万歳は幕末の頃から小屋がけで演じられるようになります。正月の門付け芸から、365日演じる舞台芸への転換のはじまりです。明治になり、そこで人気を集めた演目が「三曲万歳」でした。

三曲漫才は従来より娯楽色の強い万歳です。鼓に三味線や胡弓を加えた3つの楽器で伴奏。3人以上で歌舞伎のパロディ・数え歌・謎かけなどを見せるので「芝居万歳」とも呼ばれました。

三曲万歳のもう一つの異名は「名古屋万歳」。この呼び名は名古屋を中心に盛んになったことに由来します。

やがて評判が広まり、三曲万歳は大阪の小屋に進出。そして明治30年代、大阪の芸人「玉子屋円辰」が、この三曲万歳に目を付けます。大正・昭和期に活躍した横山エンタツとはまったくの別人です。

万歳と漫才の間に~改革者・円辰と捨丸~

もともと河内音頭や江州音頭の音頭取りだった円辰は、尾張万歳から分派した伊六万歳を学んだといわれています。その上で、太夫と才蔵の掛け合い噺に、踊り・都々逸・民謡・阿呆陀羅経・数え歌・謎かけなどを組み合わせたショーを作り出しました。これまでより一段とバラエティ色を強めた万歳です。

一座を組んで「名古屋万歳」の看板をかかげて大阪で興行すると、これが大当たり。すぐに真似する者が現れ、それぞれの持ち芸に太夫・才蔵の掛け合いを加えた芸が、あちこちで演じられました。

これら三曲万歳から派生した「音曲+諸芸+掛け合い噺」による寄席芸は「万才」とも称されました。神事の色を薄めたエンターテイメントとして“まんざい”を生み出した功績から、円辰は上方漫才の祖と呼ばれることになります。

玉子屋円辰

しかしこれは、我々の知る漫才から遠い姿をしていますね。近代万歳は常に変化する芸能でした。明治末期から大正時代にかけて、音曲や諸芸をつなぐ掛け合い噺、つまり「しゃべくり」に特化した万歳が動き出します。

そのトップランナーが「砂川捨丸」という芸人です。彼も江州音頭の音頭取りでしたが、流行に乗って万歳興行をはじめました。

捨丸は円辰式の万歳に改良を加え、2人の掛け合いを中心にまとめながら、得意の唄を加えるいう新しいスタイルを生み出しました。手には鼓、紋付き袴姿という衣装も特徴的な捨丸の芸は「高級萬歳」と名付けられます。

これが評判を得て、捨丸はレコードを発売しヒットを飛ばします。当時、関西では人気でも全国ではマイナーだった寄席万歳をメジャーにすることに、捨丸は大きく貢献しました。

砂川捨丸

捨丸は何人かとコンビを組みましたが、一番長く続いたのは中村春代です。彼女がハリセンで捨丸を叩く、鋭いツッコミもコンビの魅力でした。

2人は『わろんてんか』に登場する万丈目夫妻のモデルのひとつかもしれません。ただし、よく誤解されますが捨丸・春代は夫婦ではありません。しかし2人は昭和46年に捨丸が亡くなるまでコンビであり続けました。

そして「まんざいの骨董品でございまして」が決まり文句だった捨丸は、最後まで鼓を持ち続けます。改革者でありながら、古き万歳の名残を残した芸人でした。

漫才爆誕!すべてが新しかったエンタツ・アチャコ

昭和期に入って、いよいよ「漫才」が誕生します。

寄席万歳に革命が起こったのは昭和のはじめ(1930年代)です。「横山エンタツ・花菱アチャコ」というコンビが、まったく新しい“まんざい”を世に出しました。

それまでの寄席万歳は、楽器を手に和装で舞台に立つのが基本でしたが、エンタツ・アチャコは楽器を手放し、洋服姿で登場したのです。「君と僕」と言い合う日常会話のような口調。流行を取り入れた現代的なネタ。すべてが斬新でした。代表作は、当時大人気だった六大学野球をネタにした『早慶戦』です。

祝福芸の色を完全に排除し、ここに完成した「しゃべくり万歳」を、吉本興業は「漫才」と書き換えることしました。「万」より気楽なイメージの「漫」の字が採用されたそうです。漫画の「漫」と同じですね。

花菱アチャコ(左)・横山エンタツ(右)

『わろてんか』のキースとアサリのモデルはこの2人でしょう。
また、ドラマでは芸人出身の万丈目が台本を書きますが、エンタツ・アチャコの台本を書いたのは「秋田實(あきた・みのる)」という作家でした。秋田は東京帝大出身のインテリであり、多くの漫才台本を手がけ上方漫才の父と呼ばれました。後に、彼をモデルにした朝ドラ『心はいつもラムネ色』(昭和59-60年)が制作されます。

寄席を大爆笑させたエンタツ・アチャコの漫才は、やがてラジオの電波に乗って日本中に広まります。主演映画が何本も作られ、エンタツ・アチャコは大スター芸人となり、2人に続いて多くの漫才師が生まれることになります。

こうして漫才は、日本人なら誰もが知る演芸の王様となったのです。

あえて言いたい、しゃべくりだけが漫才じゃない

万歳から漫才への移り変わりを見てきました。ここでもう一つ、忘れていけない漫才の話をしておきます。それは「音曲漫才」。三味線などの楽器と唄と、軽やかな話芸を組み合わせた、捨丸・春代の流れを受け継ぐ芸です。ある意味では万歳の本流と言えます。

かしまし娘、内海桂子・好江、玉川カルテット……などの名を上げれば、昭和生まれの人はピンとくるでしょう。これら音曲漫才は昭和30年代からテレビで大人気になりました。今も現役で活躍されている芸人がいます。

どぶろっくやテツandトモなど「音ネタ芸人」は音曲万歳の子孫ともいえます。今後さらに音曲漫才の分野から新しいスターが生まれたら楽しそうなので、期待したいところです。

もっとも身近な伝統芸

常に進化する漫才と、古来の姿を残す万歳。どちらも「2人組で笑いを届ける」という基本は変わっていません。“まんざい”をひとつの芸と考えれば、落語や歌舞伎より長い歴史のある芸能ということになります。ところが漫才を伝統芸能ととらえる人は少ないでしょう。もっとも身近な芸能のひとつです。

それでいて、ハレの日の「祝福の芸」から日常を切り取る「気楽な芸」となった現代も、正月番組には欠かせないのが漫才です。笑いで福を呼ぶ“まんざい”の魂は生き続けています。

参考文献:
小沢昭一『ものがたり 芸能と社会』(白水社)
小沢昭一・矢野誠一『物語で学ぶ日本の伝統芸能(五)寄席芸・伝統芸』(くもん出版)
三國連太郎・沖浦和光『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)

画像出典:Wikipedia 写真AC

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