西郷どんとともに英断を下した徳川慶勝は元祖カメラ小僧だった[後編] (2/3ページ)

Japaaan

明治維新での功績

倒幕の道を選んでからというもの、慶勝が明治維新に果たした功績は、計り知れないものがあります。挙兵した新政府軍が、西国から江戸までの長い道中で大きな攻撃も受けずにすみやかに進軍できたのは、慶勝が尾張から江戸の間に位置する藩や寺社に向けて膨大な量の手紙を書いたり、使者を派遣して「新政府側に付いた方がいい」と説得したからに他なりません。

幕府軍に比べて人数も少なく、軍としては生まれたての赤ちゃん状態の新政府軍を守るために、慶勝は寝る間も惜しんで奔走し、半年間で約750通もの手紙(勤皇誘引書類)を書きました。

本当はカメラ撮影をこよなく愛するマイペースなお殿様なのに、そのマイペースを封印し、民のためにものすごい行動力を発揮した慶勝は、やはり賢君であったと言わざるをえません。

維新後のカメラライフ

慶勝が弟・茂徳に命じた助命嘆願により、幕府側の会津藩主・容保や、桑名藩主・定敬は生き永らえました。老後に4兄弟は再会し、写真撮影をしました。

こちらの画像は高須四兄弟(明治11年9月撮影)。左から松平定敬、松平容保、徳川茂徳、慶勝。
出典元:Wikipedia

しかし慶勝は戊辰戦争では会津にも出兵しており、容保は兄でありながら自藩を攻撃されたという複雑な思いがあったようです。

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