ストロングマシーン引退:杉作J太狼XE「美しさ勉強講座」連載72 (2/3ページ)

ブッチNEWS

だが当時はすべるという概念もなかった。

「ちょっとそれは……」

 誰もが見なかったことにしようとしていたのではないだろうか。だが選手の大量離脱などもありストロングマシーンは悪の若松マネージャーとともに新日本プロレスの最前線へ、メインストリームにあれよあれよと押し出された。その頃、中身が平田淳二だということはほとんどのファンが知っていた。要するに、そこまで押し出しても大丈夫な力量を備えていた、そして誰もが認めていたということである。ま、それは置いといて。

 だが置いておきたくない仲間もいて、

「お前は平田だろう」

 とまさかのカムアウトを迫る敵まで登場した。

 当時、私はストロングマシーンの原稿をそりゃよく書いた。今と違って文章にも熱が込められておりかなりの傑作を何本も書いているはずである。勝手に漫画にも描いていた。存在をヒントにして『殺人マシーン』だったろうか、脚本を書いて8ミリの映画も撮った。漫画屋の塩山芳明さんと当時学生だった赤田義郎くんを大雪の神田で撮影した。

 私はストロングマシーンに夢中だったのだ。

 それは漫画家としてデビューしたはいいが、画力もまったくなく、この先、どうなるのかと思っていた不安な気持ちと、ストロングマシーンの持つ不安定な雰囲気がリンクしていたからだといまなら思える。きっとそうだ。

 平田の帰国は私の漫画家デビューの翌年だが、それまでに数年、海外で修業しているので年齢的にはすこし上である。

 カナダでは「サニー・トゥ・リバース」というリングネームであった。日の当たるところへ帰りたい。インディアンをモチーフにしていたのだ。そうした平田のエピソード、そのひとつひとつが効果的に作用せずに、ストロングマシーンは続いた。何度か様々な小休止もあったが2018年まで続いた。本人も、続くと思っていただろうか。機械音でギガガガと話したとも言われたあの帰国時に、引退まで続くと思っていただろうか。そこは私も同じだ。まさか杉作J太郎で続けると思わなかった。

 男の意地だろうか。そんな同期だろうか。

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