歴史に秘められたニッポンの「陰謀論」を解け!(2)戦国武将たちの「俗説」を問う (2/2ページ)

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 分け目となった「関ヶ原の戦い」(1600年)は、秀吉の没後、家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が戦ったとされる。

 ところが近年、日本史の教科書には「そもそも西軍の総大将が三成ではなく、毛利輝元である」と改訂されている。250万石の大大名である家康に対し、19万石の三成が対峙という図式は考えにくいというのだ。

 そんな「関ヶ原」では、軍勢では西軍が上回っていたが、わずか7時間で東軍の勝利に終わる。その背景には「西軍の小早川秀秋が家康に寝返ったから」というのが通説。だが、はたしてそうか。

 実は小早川の裏切りは西軍にとって想定の範囲内。三成と密接な仲の大谷吉継は謀反を警戒しており、東軍についた小早川を別働隊で押し返している。

 それでも西軍が負けたのは、家康の調略(政治的工作)が小早川以外の武将にも及んでいたこと。毛利家の吉川広家を調略し、毛利軍2万9000の兵を進軍させなかったという。

 また近年、何かと取りざたされるのが「関ヶ原の黒幕はエリザベス1世」だったという説。論理となるのは、日本との貿易で銀を手にしたいイギリスだったが、西軍にはキリスト教徒が多く、スペインやポルトガルと密接。ならばとエリザベス女王は家康を担ぎ出した、というのが理由とされる。

 残念ながら飛躍した展開が多く、そもそも女王の密命を受けたとされるウィリアム・アダムス(のちの三浦按針)は、ただの船乗りにすぎなかったようで、検証には値しないようである。

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