天才テリー伊藤対談「小松政夫」(1)高給取りから一転植木等の付き人に (2/2ページ)

アサ芸プラス

テリー はー、でも昔と全然変わらないですよ、実感ないでしょう?

小松 そうなんですよ。私の師匠の植木等が亡くなったのがちょうど80で、だいぶその年齢に近づいてきたんですけどね。

テリー 植木さんが亡くなられてもう10年たつんですね。植木さんは、いくつぐらいまでお元気だったんですか?

小松 亡くなる5年前までは、芝居をやっていましたね。私はその芝居につきっきりでしたけど、その時にもだいぶ具合は悪くて、もう普通に座ってるのも大変そうでしたけどね。

テリー 小松さんも自分のお仕事があるのに、大変じゃないですか。やはり「自分がついてなきゃダメだ」と思ったんですか?

小松 というより、ついていたかったんですね。もう階段の上り下りも難しくて、しんどそうでしたから。だから舞台が始まる5分前の合図のベルも「(舞台へ上がるのに時間がかかるから)10分前にしてくれ」と舞台監督さんに頼んだりしました。

テリー まさに師弟愛ですね。おふたりの強い絆といえば、何度も本になったり、ドラマ化されたりするほど有名ですけど、あらためて植木さんのところへ行くことになった経緯を教えていただけますか?

小松 私はそれまで車のセールスマンをしていて、月給は150万円ぐらいあったんです。昭和37~38年頃で、ラーメン1杯40円の時代だから、すごいでしょう?(笑)。

テリー 本当にすごい、エリート中のエリートじゃないですか。

小松 そういう生活を捨てて、ある日、植木の付き人兼運転手募集の広告を見て、面接に行ったわけです。言うなれば弟子入りだから、こちらは「ちょっと踊って見せてみろ」とか、簡単な模擬テストみたいなものがあると思うわけですよ。

テリー 思いますよね。

小松 でも、そんなのは全然なくて。本当に車の運転手が欲しかっただけなんです。そこへいくと、私はもう21歳の社会人だから。

テリー ああ、もう社会に出ているから、ちゃんとした対応ができるわけですね。

小松 他はラフな格好の若者ばかりで、こっちの見栄えはいちばんいいわけです。たぶん、それだけでOKになっちゃったんだと思いますよ。だから、あとで植木からは「おまえが役者志望だとは思わなかったよ」って言われたんですよ、私は、初めからそのつもりだったのに(笑)。

「天才テリー伊藤対談「小松政夫」(1)高給取りから一転植木等の付き人に」のページです。デイリーニュースオンラインは、週刊アサヒ芸能 2018年 4/26号小松政夫植木等テリー伊藤芸人エンタメなどの最新ニュースを毎日配信しています。
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