百人一首に歌を取り上げられた天皇にはある共通点があった:鎌倉時代編

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百人一首に歌を取り上げられた天皇にはある共通点があった:鎌倉時代編

激動の平安末期〜鎌倉時代を生きた2人の天皇

『小倉百人一首』は、奈良時代の2人の天皇の歌で始まり、鎌倉時代の2人の天皇の歌で終わっています。百人一首に取り上げられた天皇の多くは、政治的に不遇だったなど、何らかの「ワケアリ」の治世を送った天皇でした。さて今回は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて生きた2人の天皇に注目してみました。

後鳥羽院

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆえに もの思ふ身は

99番目の歌の作者である後鳥羽院は、高倉天皇の第4皇子・尊成(たかひら/たかなり)親王として誕生した第82代天皇です。
異母兄には、壇ノ浦の戦いで平家とともに海に沈んだ第81代・安徳天皇がいました。

(画像出典:後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)/Wikipediaより)

彼の生きた時代は、平氏の全盛と滅亡、そして源氏の台頭とまさに激動の時代でした。権力を握った平清盛は、娘の建礼門院徳子の産んだ皇子である安徳天皇をわずか満1歳4ヶ月で天皇に即位させましたが、安徳天皇は平氏の形勢悪化に伴い、平家一門に連れられて都落ちしました。

天皇の不在は、政務が滞ることに繋がります。そこで院政を行っていた後白河法皇の院宣により、安徳天皇の弟である後鳥羽天皇がわずか4歳で即位したのでした。この時安徳天皇は退位をしていなかったため、平家滅亡までの2年間、2人の天皇が同時に在位するという異例の事態となりました。

後鳥羽天皇は建久9(1198)年に天皇の位を第83代・土御門天皇に譲り、上皇となって院政を行うようになりました。しかし彼はやがて権力を握るようになった鎌倉幕府と対立、「承久の乱」を起こすに至ります。

ここで敗退した後鳥羽院は隠岐島に配流とされ、延応元(1239)年に崩御されました。当初の追号は「顕徳院」でしたが、仁治3(1242)年6月、九条道家の提案により現在知られている「後鳥羽院」に改められました。

百人一首に取り上げられたこの歌からは、そんな激動の世を生きた後鳥羽院の思いが伝わって来るようです。

順徳院

ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり

百人一首の大トリを飾る順徳院は、99番の後鳥羽院の第3皇子で、父と同じく承久の乱で佐渡へ配流となった第84代天皇です。

(画像出典:順徳天皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)/Wikipediaより)

父の後鳥羽院から特に寵愛されていた順徳院は、父院の意向で14歳で天皇に即位します。政治に関しては院政を敷いていた後鳥羽院が取り仕切っていたこともあり、彼は和歌や有職故実の研究に力を注ぎ、宮中の故事や作法を記した『禁秘抄』や歌論書『八雲御抄』などの著書を残しました。また勅撰和歌集にも、合計159首の歌が選ばれています。

そんな順徳院は、後に鎌倉幕府に反発する後鳥羽院の起こした「承久の乱」に参画したことで、佐渡へ流されました。佐渡で詠んだ歌の数々は『順徳院御百首』としてまとめられています。

配流されてからは「佐渡院」と呼ばれていましたが、崩御された後の建長元(1249)年に、現在知られている「順徳院」と追号されました。

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