【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第6話
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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第5話 文政七年 春(1)夢のような話だと思う。
朝目覚めたら、夕べには何もなかった窓の外に艶麗な桜の大樹が咲きすさんでいるなんていうのは、娑婆の女にとっては夢物語に違いない。しかしこの吉原の廓内(なか)では、毎年三月になると当たり前にそれが繰り返される。
(目が覚めても、夢の中みたい)
みつは半ば切なく、半ば誇らしくそう思っている。それが幸せな事なのか不幸せな事なのか、生み落とされた時からこの吉原遊廓に生きるみつには分からない。
卯の刻。
小夜がほのぼのと明け始めるこの時刻、みつは毎朝帰り客に添って見送りに出る。付き合いの浅い客は店の間口まで、馴染みなら五丁町を抜けて大門までゆく。京町一丁目から仲之町に出る木戸門を潜った時、目の前に広がる光景にほうっと嘆息した。この時期には、仲之町のあちこちから感嘆のため息が漏れ聞こえてくる。
(なんて、贅沢な眺め)
歌川広重「東都名所新吉原五丁目弥生花盛全図」国立国会図書館蔵
青竹の欄干に囲われた満開の桜が、水道尻から大門口までまっすぐ仲之町の中央を貫く。その数、一説に数千本。それを数日で移植するのだから、吉原に出入りする高田の植木屋の所業には瞠目せざるをえない。
純白の光と陰翳(かげ)の粒が無数に寄り集まって、春風にふるえる花ひとひらを織りあげる。そのひとひらが幾千幾万の花の波となり、寄せては返す桜の雲海を作った。
春爛漫。
たとえようもなく美しい吉原遊廓の春である。
呼吸(いき)を吸えば、鼻腔いっぱいに芳烈な花の香りが広がる。指先に触れる空気の感触すらも、昨日までのそれとは変わりいっそう凛と澄み渡っている。
(この桜はあたしら女郎にはきっともったいない。けれど娑婆の女には絶対、譲りたくない)
みつには、この可憐な桜の一輪々々が吉原遊廓の女郎一人々々を象徴しているように思えた。そして、太い長路の真ん央を貫く幾千の桜の真一文字は、吉原に生きる女の意気地そのものであった。
国丸「新版浮絵 新吉原仲ノ町之図」ボストン美術館
「アア、今年も」、
昨晩身を任せた馴染(なじみ)の客が、一歩先をゆるりと歩きつつ口を開いた。伊勢屋長兵衛といい、日本橋本船町の油問屋の主人である。齢十三の時にまだ処女(おとめ)だったみつを水揚げしたのも彼だ。その時の事を思うと今でも胸が狭まり呼吸(いき)が苦しくなるが、十年の付き合いの長さはどうしようもない情を生んで、不思議と憎む気にはなれない。
「吉原の遊郭に春が巡ってきたんだねえ 」。
夜明け前の、まだ白い月の浮かぶ幽玄の空に夢より淡い桜がかすむ。五十路過ぎの長兵衛にはその光景は眩しかったのか、眦に細かい皺の走る目を細めてそう言った。
「ええ。・・・・・・」
みつは彼を見上げて微笑んだ。
「綺麗だよ、紫野」
紫野という源氏名で呼ばれたみつは、淡く微笑み返した。
誰よりも千本桜の良く似合う、凛とした花魁の表情が、そこにあった。
画像:筆者
長兵衛が大門の向こうに見えなくなった後、みつは振り返ってしばらく立ち止まり、茫然と桜を眺めた。
歌川国貞「あづまの花 江戸繪部類より北廓月の夜桜 」国立国会図書館
門脇の四郎兵衛会所から、三、四人の若い男衆が訝しむようにこちらを見ている。
逃げやしないかと見張っているのだ。
花魁と言えども、籠の中に飼われた女郎である事に変わりはない。
口では褒めそやしながらもどこか疑うような品物を見るような、そういう冷たい視線にももう慣れている。
小さなくちびるから嘆息が漏れた。
日が出る前に部屋に戻ろうと気怠い足を引きずるようにして歩き始めた時、
「みつ!」
振り返ると、大門の向こうに国芳が居た。
画像:筆者
「国芳はん!」
国芳が大門をくぐって駆け寄った。
正月に会ってから、いつの間にか時が三月も過ぎていた。
「いやあ、すぐに見つけられると思ってたんだが、探すのにこんなに手間取るなんてな!まいったまいった」
頭を搔きつつ、
「でもやっと見つけた。めえに見せてえものがたくさんあんだ……!」
そう言って国芳は首に掛けた風呂敷包みを叩いた。
「付いて来て」
みつは会所の若い衆の目を盗むように短くそれだけ言い、ぱっと後ろを向いて駆け出した。目指すは例の京町裏通りの桐屋の行燈である。
アイキャッチ画像 文字加工、絵:筆者、浮世絵(一部ぼかし加工): 歌川国貞「あづまの花 江戸繪部類より北廓月の夜桜 」国立国会図書館http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541121
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