弟のピンチに取った行動とは?室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その3
前回、足利尊氏が鎌倉幕府を倒して後醍醐天皇の重臣となるまでをお話しました。
鎌倉幕府を倒すも政治には無関心?室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その2建武の新政で不満を抱いた武士達が彼の下に集まるのは、政権側にとっては脅威となる出来事でした。今回は、その経緯を紹介します。
出る杭は打たれる!怒れるライバルの眼差しが尊氏に降り注ぐ
護良親王
武士に心服される名将であった尊氏には数多くのライバルがいましたが、この頃は同じ源氏の名門である新田義貞、そして後醍醐天皇の第三皇子であった護良親王(もりよししんのう)でした。朝廷を脅かし、混乱を招いていた武家政権を壊滅させたのに武士である尊氏が勢力を伸ばしている…これは、朝廷軍の武将として活躍した親王にとっては危惧すべき出来事だったのです。
護良親王は尊氏をけん制するために征夷大将軍として就任しますが、尊氏を倒さねば後の災いになると懸念し、彼を闇討ちする計画を立てます。しかし、それは尊氏に露見してしまい、今度は足利が反撃に出ました。
尊氏は親王の継母である阿野廉子(あののれんし)、そして後醍醐天皇に自分の無実を訴えてその保護を受け、防衛態勢を固めたのです。反対に、3人もの実力者を敵に回してしまった護良親王は1334年に失脚して捕まり、朝廷における尊氏排斥は沈静化したのでした。
北条の残党が蜂起!弟のピンチに尊氏が取った行動は…
足利直義
北条高時と配下の多数は討幕計画によって死にましたが、全滅はしていませんでした。1335年7月、高時の息子が建武の新政とそれに伴う混乱に乗じて鎌倉に攻め寄せてきたのでした。これを中先代の乱と言います。
関東には尊氏の弟の直義と、皇族出身の将軍とが派遣されていましたが、戦闘を指揮するのに秀でていた尊氏がいなかったために苦戦し、逃げ回ることを余儀なくされました。その時、足利の武士が数多く殺され、鎌倉に流刑されていた護良親王も亡くなる(※1)など、惨劇が各地で起こりました。
その報を受けた尊氏は、北条征伐と征夷大将軍の許可を頂戴したいと後醍醐天皇に申し上げますが、認可されませんでした。しかし、弟や一門がピンチなのに尊氏は居ても立っても居られなくなり、独断で出撃して北条を撃退します。ついに源頼朝ゆかりの鎌倉を手にし、尊氏は武士のために独自の恩賞を与え始めました…。
(※1)北条に担がれるのを恐れた直義と配下による暗殺、もしくは彼らの手引きで東北へ逃げて生涯を終えたなど諸説あり。
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新田義貞
足利が東国に武士政権を樹立した時、『公正に恩賞を貰える!』と喜んだ各地の武士達は、もちろん鎌倉に集います。尊氏は、朝廷からの帰還命令もそっちのけで困窮していた武士の救済に取り組み、京との関係が揺らぎ始めました。
それに追い打ちをかける事件が起こりました。足利が接収して武士に与えてしまった領土の中に、新田義貞が支配権を持っていた土地も含まれていたのです。かねてから足利とライバルだった新田氏の総帥である義貞は激怒し、後醍醐天皇に尊氏討伐の許しを得ようとします。
尊氏も負けじと義貞の不当性を訴えますが、新田側は綿密な訴状を書き上げ、足利のせいで護良親王が亡くなったこと、尊氏が天皇の命令書をないがしろにしたなど、足利の非を糾弾しました。これによって後醍醐天皇の忠臣として名を馳せた足利尊氏は、朝廷に反逆した賊として追われることになってしまったのです。
後醍醐天皇を味方にした新田義貞が官軍として襲来すると言うかつてないピンチを、どのようにして尊氏は切り抜けたのでしょうか。次項では、それをお話します。
画像:Wikipedia『護良親王』『足利直義』『新田義貞』
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