いつの時代も「まだまだ世界は捨てたもんじゃない」心温まる歴史上の8つの出来事。
連日ニュースを賑わすのは、戦争や犯罪、差別や虐待など心悲しくなるものばかりだ。
悲惨なニュースは大きく取り上げられるが為に、とても目立つし記憶に鮮明に残るが、その裏では人知れず、大きなものから小さなものまで、心温まる行為が誰かによって繰り返し行われているのも事実だ。
あまりニュースで取り上げられることはないけれど、いまもどこかで誰かが誰かによって救われている。
それは歴史を見てもわかる。
利害を超えた団結から、時代を越え、海を越えて広がる友情、町を鼓舞した風変わりな皇帝など、人間はまだまだ捨てたもんじゃないということを歴史は示してくれる。
ここでは前回に引き続き、歴史上本当にあった、心温まる出来事を見ていこう。人類の永遠の親友である犬もまたこの物語に加わっている。
・1. サッカーで世界平和
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2006年にコートジボワールの内戦が停戦によって終結し、そのおかげでみんながワールドカップを観ることができた。
当時、この国は内戦のさなかだったが、サッカーチームは国中から招集したメンバーで構成されていた。スーダンを破ってワールドカップへの出場権を得てから、選手たちが団結して、戦いをやめてきちんと選挙をするようテレビで訴えた。
それからわずか数日で戦闘は停止、この国は現在も自由選挙によって選ばれた政府によって機能している。
・2. ささやかな食糧作戦:ベルリン封鎖時の心温まるミッション
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ゲール・ハルヴォーソン大佐は、"ベルリン・キャンディ・ボンバー"または"翼フリフリおじさん"としても知られている。
ハルヴォーソンはベルリンへの空中からの物資輸送時のパイロットだったが、あるときベルリンに立ち寄ったときに30人のドイツ人の子どもたちに出会った。そこで子供たちから自分たちの自由のために、フライトを続けて欲しいと言われた。
ハルヴォーソンが子どもたちにガムをあげると、子どもたちはたちまちそれを分け合って、包み紙をとっておいて残り香まで楽しんでいた。
胸にくるものがあったハルヴォーソンは、子供たちに、飛行機がきたら翼を震わすのをよく見ているよう言った。それから、彼は任務の合間に、配給のチョコレートを小分けにしてパラシュートで包み、次のベルリン飛行のときに、飛行機の翼を震わせて合図して、窓からチョコの包みを投下した。
最初はハルヴォーソンが個人的に行っていただけだったが、空中補給作戦の司令官であるターナー将軍がこのことを聞きつけ、正式に許可を与えた。
まもなく、アメリカのキャンディメーカーがドイツの子どもたちのために大量のキャンディを輸出し始め、ほかのパイロットたちもほぼ全員がこの作戦に参加した。
・3. 街の人々に愛された2匹の野良犬が公式に地域犬に
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この2匹はアメリカ・サンフランシスコの街を自由気ままに動いている野良犬だったが市民から愛されていた。
1862年6月14日、ラザルスが野犬狩りに捕まったとき、怒った市民の群衆が彼を放すよう要求した。2匹は街の財産であることをはっきり認め、自由に街を走り回ることができるよう嘆願したのだ。
行政はラザルスを解放し、ブーマーと共に街の野良犬禁止令の例外として認定した。
・4. 日本人の隣人を愛し、彼らの財産を守り続けた検査官
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第二次大戦中、カリフォルニアのある農業検査官が隣人である二人の住民から声をかけられた。
二人は日本人であることから強制収容所送りになってしまうので、自分たちの農場を代わりに見守ってくれないかというのだ。
彼らは土地が横取りされないように管理してもらう代わりに、不在の間の住居や農場からの利益を提供するという条件だった。
その検査官、ボブ・フレッチャーは、自ら作物の栽培を学び、一日18時間働いてこのふたりの農場をしっかり運営した。彼らの住居は使わず、飯場に寝泊まりして、農場からあがるけっこうな利益は投資に回した。
ふたりの日系人が解放されて戻ってきたとき、自分たちの土地がどれほど荒れ果てているか心配していたが、作物がたわわに実り、フレッチャーが投資をしてくれたおかげでかなりの資金まで蓄えられていたことに驚きを隠せなかった。彼らはそれをフレッチャーと当分に分けたという。
この話はとても心温まる。隣人を愛し、自分がしてもらいたいと思うことを他人にしてあげることがどういう意味をもつのかをはっきり示しているからだ。
・5. 困難の中、別の困難を抱えている人々に寄付をしたアメリカ先住民
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1847年、アメリカ南部の先住民チョクトー族が、アイルランドの飢饉援助のために170ドル(現在の価格にして数万ドル)を寄付した。
「涙の道」によって、チョクトー族を含むアメリカ先住民はインディアン居留地に強制移住させられられていたが、そんな自分たちの苦難にもかかわらず、彼らは苦しみを抱える見ず知らずの人たちのために寄付をしたのだ。
・6. アメリカ同時多発テロ事件の後、全世界に広がった助け合いの輪
9/11 KENYA / ENOOSAEN / GIFT !
・遥か遠い場所で暮らすアフリカ、ケニアのマサイ族が、9・11アメリカ同時多発テロ事件後、牛14頭をアメリカに寄贈した。最終的に、牛はアフリカから出ることはなかったが、その仔牛の売り上げ収益が教育資金のために使われた。
・更にはバッキンガム宮殿でアメリカ国家が演奏された。英国では、衛兵後退時には他国の国歌を奏でてはいけないということになっている。だが、英女王がこれを命じたとき、女王自らがその慣習を破ったことは注目に値する。
9/11 American National Anthem Buckingham Palace
・カナダ、ニューファンドランド島ガンダー。国際空港のある人口3000人のこの小さな町に、9・11後、38機の飛行機が緊急着陸を余儀なくされた。
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世界じゅうからやってきて立往生している6000人の乗客・乗員のために、町の人々は進んで宿、食糧、処方薬などを提供し、恐怖に怯える乗客たちに安心を与えた。
・7. 国を追われた人々の為、大量のビザを発行し続けた杉原千畝
海外ではセンポ・スギハラとしても知られていた杉原千畝は、1939年、リトアニア、カウナスの日本領事館の副領事になった。
ドイツ軍が東へ侵攻し、ポーランドのユダヤ人たちは国を追われて、出国ビザを発行してくれる国を探していた。ヨーロッパを出て、パレスチナ、オセアニア、南米など、中立国もしくは同盟国へ脱出しようとしたのだ。
ユダヤ人たちは、日本の領土から目的地へ向かうための二次入国ビザを得るために、出国ビザを持つ必要があったが、日本政府はこれを許さなかった。(※ただし諸説あって、日本は通過ビザの発行を許可していたという話もある)
だが、センポは一日18時間、数週間を費やして10日間有効の通過ビサを手書きでしたため、ドイツ軍がリトアニアに進軍してきて、センポや同僚たちが帰国を余儀なくされる前に、約6000人のユダヤ人を救った。
家族とともに帰国のための列車に乗ろうとしているときでさえ、センポはギリギリまでできるだけ多くのビザを発行していた。
拾った者が誰でも使えるよう、無記名のビザを窓から次々に投げ捨てた。ユダヤの人のためにもっとたくさんのビザを発行できなかったことをのちのちまで悔いていた。
こうしてビザを発行してもらえたユダヤ人の多くは、当時、日本が占領していた上海や神戸などのユダヤ人ゲットーへ向かい、そこに滞在している間に、ポーランド政府が日本国外の避難先を見つける手助けをした。
終戦まで出国できなかった人もいたが、この6000人のユダヤ人子孫4万人がいまだにセンポに感謝している。
・8. 第二次大戦時の知られざるギリシャの英雄たち
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第二次大戦時、ナチスがギリシャを占領していたとき、ザキントス島の指導者は、全ユダヤ人の名前が載ったリストを引き渡すよう命じられた。
このとき神対応をしたのが、市長のルーカス・カラーと司祭のクリュソストモス。彼らは、275人のユダヤ人住民全員を人里離れた村に隠し、リストは要求どおり手渡した。そこには彼らふたりの名前しか記されていなかった。
この結果、ザキントスのユダヤ人たちは全員、戦争を生き延びた。
前編はこちら
・歴史は繰り返されるのならば良い行いも繰り返される。心あたたまる歴史上の8つの出来事 : カラパイア
References:Incredible, Real Historical Events That Will Warm Your Heart/ written by konohazuku / edited by parumo