持つべきは心を許せる同志。室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その4
前回は足利尊氏による武士を守るための勢力が樹立されたことと、それに前後して起きた諸問題のために反逆者の汚名を受けるまでをお話しました。
弟のピンチに取った行動とは?室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その3今回はその汚名を返上した尊氏の戦いを紹介致します。
義貞なんて怖くない!でも、帝とは争いたくない…悩める尊氏は引きこもる
箱根山
ところで、新田義貞が朝廷を味方にして攻めて来た時に尊氏は何をしていたでしょうか。戦の支度をしていたと思いきや、断髪して出家しようと寺に籠っていたのです。後醍醐天皇を敬愛する忠義の心を保ち続けていた尊氏は、『私は陛下に背く気はありません。お許し下さい』と訴えるべく、出家を望んだのでした。
しかし、新田軍の猛攻によって家臣の高師直(こうの・もろなお)や弟の直義が殺されかけたと聞いた時、尊氏は腹をくくります。一門、とくに弟が死んでしまえば自分に生きる意味は無いと奮起した戦の天才・尊氏の出陣によって足利軍は勢いを盛り返したのでした。
義貞も決して弱い武将ではなかったのですが、尊氏が相手では分が悪く、箱根・竹ノ下の戦いで打ち負かされた新田軍は総崩れに陥り、潰走を余儀なくされます。1335年の12月のことでした。
勝利に酔うのも束の間…盟友と天才児が襲来して尊氏はまたもピンチに!
北畠顕家
しかし、その勝利は更なる増援を招く結果を尊氏にもたらします。東北地方から文武両道の貴族将軍として知られた北畠顕家(あきいえ)、京都からはかつての戦友で親交があった楠木正成が義貞を救うために出撃して来ました。つまり尊氏は、義貞を撃退したために彼以上の強敵を招き寄せてしまったのです。
1336年の1月、後醍醐天皇は比叡山へと退却し、京都に入った尊氏を迎撃したのは正成の策略でした。正攻法なら敵なしの尊氏でしたが、ゲリラを得意とした正成の攻撃に手を焼き、同月の30日には京から逃げる羽目になります。
持つべきは心を許せる同志。多くの武士に救われた尊氏は九死に一生を得る
赤松円心
日本に限らず歴史上では朝廷・政府によって賊軍と断罪されたら、その勢力はおしまいと言うのがセオリーですが、尊氏はそうなりませんでした。何故ならば、将兵達は命懸けの奮闘に対する恩賞を出し惜しみする朝廷では無く、武士のための政治を志す足利を選んだからです。
中でも倒幕の英雄でありながら冷遇され、主君だった護良親王の騒動に連座させられていた播磨(兵庫県)の豪族・赤松円心(えんしん)を始めとした畿内の有力者が官軍を見限って足利に投降し、それによって敗軍はかえって味方を増やしたのです。尊氏に心服した円心は九州に落ち延びるよう進言し、尊氏もまた心を許した円心の言葉に従って、再起を図るべく九州に向かいました。
度重なる失政によって臣民からの信頼を失い続け、迷走を続ける建武政権と、苦しむ者達の期待を一身に受けて動き出した尊氏の武士政権―次項では、両勢力の激闘について紹介していきたいと思います。
画像:Wikipedia『箱根・竹ノ下の戦い』『北畠顕家』『赤松則村』より
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