そして戦友は散っていった…。室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その5

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そして戦友は散っていった…。室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その5

前回、新田義貞との間に起きた争いに敗れた足利尊氏が反逆者として追われるまでを紹介しました。

持つべきは心を許せる同志。室町時代を築いたレジェンド・足利尊氏の生涯に迫る!その4

今回は、尊氏が起こした奇跡の大勝利と言うべきエピソードを紹介していきます。

九州で態勢を立て直した尊氏、京都目指して反撃を開始する!

湊川で戦う新田義貞

赤松円心の進言で西国へ落ち延びた尊氏は、九州各地に割拠する有力者の手厚い庇護を受けます。その中には元寇で活躍した少弐氏をはじめ、薩摩の島津氏や宗像大社と言った今注目されている武家、寺社勢力もいました。

彼らの助力を受けた尊氏は多々良浜(たたらはま。今の福岡県)の戦いで官軍に味方する群雄を撃破し、後顧の憂いを断って京都に向かったのです。更に、後醍醐天皇と対立する光厳上皇から院宣(命令書)を賜っていた事で賊軍の汚名が除かれ、足利の士気は高まっていました。

一方、播磨を攻めていた新田義貞は円心の巧みな作戦に翻弄され、足利軍を取り逃がします。また、楠木正成は逆襲があることを予測し、尊氏を許して呼び戻すように朝廷に訴えますが、徒労に終わります。このように義貞ら官軍が内部争いを繰り返しているのに対し、尊氏率いる反乱軍改め上皇軍は西国の武士団や、官軍からの降伏者も加えて50万もの大軍に膨れ上がっていました。1336年5月25日、この大軍勢は摂津(兵庫県)の湊川の地で義貞が率いる5万の官軍と激突します。

さらば正成!湊川の戦いで戦友は散っていった

楠木正成の首塚

当初こそ怯まずに臨戦態勢を整えていた義貞でしたが、彼は重大なミスを犯してしまいます。尊氏に味方する細川水軍が先頭になってやって来たのを尊氏本隊だと見誤り、誘い出されてしまうのです。これによって義貞と援軍の正成は分断され、尊氏は優位を手にします。

義貞が命からがら退却するのを支えた正成は、尊氏から『もう一度やり直そう』と助命を持ちかけられても辞退し、死力を尽くして奮戦した後、弟と刺し違えて死にます。尊氏と親交があり、その正しさを理解していた正成でしたが、朝廷直属の臣下として栄えた一族の当主として、どうしても降伏は出来なかったと言われています。

尊氏は正成の哀れな死を深く悲しみ、上皇軍の将兵が彼を晒し首にするのを禁じて故郷の河内に首を送り届けることで、親友に対して最大限の礼儀を尽くしたのでした。こうして勝利を治め、京都に凱旋した尊氏は、光厳上皇と皇太子(光明天皇)をお迎えし、降伏した後醍醐天皇から三種の神器を引き渡されます。そして、ついに武家政権を発足させ、征夷大将軍となるのです…が、そこで問題が起こります。

ついに幕府が開かれる…が、後醍醐天皇と義貞の抵抗は続く

吉野山

それは、1336年の12月のことでした。降伏したはずの後醍醐天皇が京都から脱出し、義貞や北畠親房・顕家親子など反尊氏・上皇派の有力者を従え、『あの神器は偽物、本物を持つ私こそ正統な帝』として吉野(奈良県)に政権を樹立させてしまったのです。南の吉野と北の京都に二つの朝廷、二人の天皇が存在すると言う日本史上類を見ない時代、南北朝時代の到来でした。

1338年、朝廷によって征夷大将軍に任命された尊氏は、京との治安を安定させるとともに南朝との戦いを怠りなく進め、天下統一に向けて邁進しました。同年の5月に高師直が和泉(大阪府)で北畠顕家を倒し、7月には北陸の越前(福井県)を転戦していた長年の宿敵・新田義貞を討った事により、南朝は有力な武将を失います。

次項では、いよいよ南北朝時代を生き抜いた尊氏最後の戦いである観応の擾乱についてお話します。

画像:Wikipedia『新田義貞』『楠木正成』『吉野町』

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