日本初の猫バカ日記!?臣下を経て即位した宇多天皇を支えたのは、1匹の猫だった

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日本初の猫バカ日記!?臣下を経て即位した宇多天皇を支えたのは、1匹の猫だった

皇子を全て臣下に下した光孝天皇

「百人一首に歌を取り上げられた天皇にはある共通点があった:平安時代編」でもご紹介しましたが、陽成院が若くして退位を余儀なくされた後に即位したのが、当時55歳の光孝天皇でした。

光孝天皇には沢山の皇子・皇女がいましたが、即位した元慶8(884)年の4月に全員を臣籍降下させました。これには、陽成院の時代から関白を務めた藤原基経の妹・高子が陽成院の弟の貞保親王の生母であったため、その立場を考慮したためでした。光孝天皇は、自身はあくまでも「中継ぎの天皇」であると考えていたのですね。

後に宇多天皇となる光孝天皇の皇子・定省(さだみ)王も、このときに「源」の姓を賜り、「源定省」として臣籍に下されました。

宇多法皇像(仁和寺蔵、15世紀)/Wikipedia

父は天皇の叔父(後に天皇)、母は天皇の孫娘という高貴な血筋に生まれた源定省にとっては、まさに試練の時代の始まりでした。現代の皇位継承問題で「旧皇族の皇籍復帰」が議論されましたが、当時は臣籍降下された元皇族が天皇になれた前例はなかったのです。

後に自分自身がその「前例」になろうとは、この時の定省には知る由もないことでした。

源定省、猫を溺愛!その親バカぶりとは!?

さて、源定省が後に即位してからの日記『宇多天皇宸記(寛平御記)』によると、彼は父・光孝天皇から贈られた1匹の黒猫をかわいがっていました。

この猫は、時の太宰少弐が人気を終えて帰京したときに光孝天皇に献上したもので、天皇が数日寵愛した後に定省に下賜されたとのこと。

定省は臣下時代も、天皇になってからも、この猫をとても大切にしていました。その溺愛ぶりはまさに「愛猫家」を越え、「猫バカ」といっても良いレベル。

何と猫は、当時は非常に高価で庶民はもちろん、貴族でも簡単には食べられなかった「乳粥」を毎朝与えられていたのです。現代の猫バカを自称する愛猫家たちも、驚きの厚待遇ですね!

更に定省は、猫にこのように話しかけていたといいます。

「お前には人間と同じように、心があるよね。僕の考えている事が分かるよね・・・?」

すると猫は、まるで言いたい事があるのに言葉にならなくてもどかしがっているかのように、溜め息をついて、定省の顔をにらんでいました。

定省にとって、猫は大切なペットであるだけでなく、彼の話を黙って聞いてくれる心の支えでもあったのです。

宇多天皇即位!

源定省の運命が大きく変わったのは、臣籍降下から3年後の仁和3(887)年8月のことでした。父・光孝天皇は病気で危険な状態となりましたが、この時点で天皇の後継者が決まっていなかったのです。

実は関白・藤原基経は、自身の妹で清和天皇の女御であった高子ととても険悪な仲だったため、その息子である貞保親王を天皇に推すことは避けたいと考えていました。
そこで基経は「群臣の推挙を光孝天皇が受け入れる」という形式で天皇の子である源定省を皇籍に復帰させ、翌日には皇太子に定めました。

そして光孝天皇がその日のうちに崩御されたため、定省親王は宇多天皇として即位することとなったのでした。

日本初の「愛猫日記」に登場した猫は、日本初にして最高の「招き猫」でもあったのです。

【参考文献】招き猫の宮 著者:菊地真・荒川千尋

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