中国から伝わった「七夕」を見事にロマンチックアレンジ?した平安貴族たち:平安時代の雑学【6】

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中国から伝わった「七夕」を見事にロマンチックアレンジ?した平安貴族たち:平安時代の雑学【6】

七夕のお祭りと言うと、皆さんは何をするでしょうか。笹竹に願い事を書いた短冊を吊るすのは定番ですし、地方によっては天の川に因んで素麺を食べたり、織姫と彦星にあやかろうと恋愛成就を願う人もいるかも知れません。実は、こうした風習は平安時代に生まれたお祭りが起源です。本項では、それを紹介していきます。

七夕のモデルは乞巧奠(きこうでん)…て、そもそも何?

七夕の元となったお祭りが日本で行われるようになったのは、奈良時代にさかのぼります。この頃の日本は、中国の唐から様々な文物や制度を導入しており、それと共に乞巧奠と言うお祭りが伝わって来ました。

これは庭先の祭壇に針などを捧げ、織女星(織姫)のように機織りやお裁縫が上達することを祈る儀式であり、後には芸事の発展を祈るものにもなります。一方、古代の日本には機織りをして神様に布や衣類を献ずる若い乙女を棚織津女(たなばたつめ)と呼んで尊ぶ風習がありました。

この棚織津女は清い水が流れる川辺などで機織りをしており、中国から渡来した牽牛(彦星)と織女の伝説にも近いものがあります。これらの伝承が混ざり合い、七夕のお祭りになった(※1)とも言われています。

(※1)七夕とかいて「タナバタ」と読む当て字もそうした背景で生まれたと言う説あり

素朴な祭りだった七夕は、平安京で優雅な儀式に変わっていった

上記のように、古代中国で生まれた七夕は、元をただせば針仕事を始めとした芸の上達を願う、素朴さが持ち味のお祭りでした。それを優雅でロマンチックな夜を過ごす行事にアレンジしたのが、平安時代の貴族達です。

平安時代、宮廷ではヒサギの葉に金銀の針を7本ずつ刺して五色の糸で針の穴を通したものを、食物や灯明などと共に供え、香を焚く中で天皇が織姫と彦星が再会できるようにお祈りを行った、言わば神事に近い七夕が行われていました。

願い事を短冊に書くのも平安期に萌芽がみられ、こうした神事の他にも七夕では詩歌の会や宴も行われ、カジの葉に願いの言葉を書いたり、和歌を記す習慣が生まれます。中でも、「天の川のしずく」として字の上達にご利益があるとされた里芋の葉にたまった露で墨をするなど、日本独特のスタイルが生まれたのも見逃せません。

こうした“手習いの上達など願い事を書く”“祈りと共に歌や宴会を楽しむ祭り”としての七夕は近世以降、庶民の中にも広まります。文才や工芸の才能上達、そして恋愛成就と言った祈りを捧げる、ロマンチックなお祭り・七夕は、自然の美と雅を尊んだ平安貴族らしいアレンジから産まれたのです。

トップ画像:山本芳翠「丑「牽牛星」」Wikipediaより

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