屈辱、魚を咥えさせて放り出す!江戸時代、女犯を犯した僧侶への本当にあった刑罰

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屈辱、魚を咥えさせて放り出す!江戸時代、女犯を犯した僧侶への本当にあった刑罰

以前、江戸時代の武士への刑罰を紹介しましたが、今回は僧侶のケースを紹介します。

蟄居、島流し、切腹など江戸時代の武士への刑罰にはどんなものがあったの?

言わずもがなですが、僧侶は禁欲的な生活を強いられます。性欲、食欲、睡眠欲にあらがいつつ、修行に励みます。

そのなかで、女犯を犯した僧に対しては厳しい処罰が待っていました。

「御定書百箇条」では、江戸の住職は遠島(島流し)、住職ではない僧侶は日本橋に三日間晒されたうえ、本寺に引き渡されます。天下の往来である日本橋でのこの恥辱、たまったものではないでしょう。禁欲できなかった未熟者として、江戸の町の笑い物になるのですから。

しかし処罰はそれでは終わりません。

僧侶は本寺に引き渡された後、裸にされて魚を咥えさせられ、四つん這いにさせられて寺を追放されました。まさに畜生同然といでもいうように。これは幕府が定めたものではなく、寺で決められた私的な刑でした。

これは耐えられない…江戸時代の僧侶の追放の様子が羞恥プレイ過ぎる…。

しかし、それで女犯が無くなるわけがありません。医者に化けて人目を忍んで遊女を買いに行ったり、はたまた寺ぐるみであの手この手で女を引き入れました。例えば、裁縫女とか台所女という名目で雇い入れ、またあるときは出張の売春婦を買いました。

ある程度は寺社奉行も目をつぶっていてあげたそうですが、大っぴら過ぎるとそうもいかず、寛政七年には内妙法寺の僧侶六人が内藤新宿で飯盛り女を買ったことがばれて日本橋に晒され、寛政13年には住職七人が遠島になりました。

天下を揺るがす一大事件として有名なのは、延命院の住職・日潤が、大奥や大名家の女中たちと毎日のように淫行していた「延命院事件」。

もともと延命院は第3代将軍・徳川家光によって開かれた寺で、大奥女中や諸大名の女中たちに人気の寺でした。若くして住職となった日潤は、その美しさと説法のうまさでたちまち女中たちのアイドルに。いつしか女中たちに手を出し、床の相手をするようになります。女たちも、参詣と称して堂々と通うようになりました。

そんな横行に寺社奉行が気がつかないわけはありません。しかし大奥の女中の中には側室候補もいるため手出しできず、また、将軍家ゆかりの寺として、証拠もなくおおっぴらに踏み込むわけにもいきません。

しかし脇坂安董(わきさかやすただ)という人物が寺社奉行になると、彼は機転を利かして家臣の娘を潜入させ、ようやっと証拠を突き止めました。日潤は死罪、大名家の女中たちはすべて解雇、大奥の女中たちはお咎めなしとなりました。

禁欲どころか旺盛な性欲で身を滅ぼした僧侶たち。なにごともほどほどに、ですね。

画像出典:『徳川幕府刑事図譜』より

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