なぜそんな人物が?六歌仙なのにひとりだけ百人一首に撰ばれなかった「大友黒主」 (2/2ページ)

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もとは天智天皇、その息子である大友皇子(弘文天皇)に仕えた一族でしたが、大友皇子が天武天皇との後継者争いに敗北してからは不遇の時代が続きます。また、大友黒主の時代はすでに藤原氏が権力を握っていた時代です。地方の大領でしかない黒主の官位は従八位上程度でした。

「古今集」での評価は?

そんな無名の黒主がなぜか貫之によって六歌仙のひとりに選ばれたのです。

さて、肝心の評価はというと、

大友黒主は、そのさまいやし。いはば、薪負へる山人の花の蔭に休めるがごとし

「古今和歌集」(校注・訳:小沢正夫・松田成穂「新編日本古典文学全集」/小学館より)

「大友黒主の歌の姿はひなびている。言ってみれば薪を背負った山人が花の陰で休んでいるような感じ」というもの。ほめているんだかいないんだかよくわからない評価ですが、それでも貫之は六歌仙を挙げ、最後には「この六人以外は本当の歌の何たるかを知らない」と言っているので、黒主のことは歌の神髄をとらえた人物として評価しているのは確かでしょう。

六歌仙でひとりだけ「百人一首」にとられなかった……

貫之によって評価された黒主は、その後の勅撰集「後撰集」「拾遺集」にも和歌がとられています。しかし、藤原定家による「小倉百人一首」には撰ばれなかったのです。黒主以外の六歌仙は五人とも撰ばれているのに。

能や歌舞伎では悪役にされる

『積恋雪関扉』

さらには、後の時代に作られた能「志賀」では、小野小町を辱める悪役として登場します。続いて、歌舞伎の「関の戸」でも天下をねらう大悪人として登場するのです。

「古今集」時代の代表歌人でありながら、のちの世ではいい評価を得なかったことがわかります。優れた歌人であることは確かなはずなのに、ちょっとかわいそうですよね。今後再評価されることを願うばかりです。

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