なぜそんな人物が?六歌仙なのにひとりだけ百人一首に撰ばれなかった「大友黒主」

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なぜそんな人物が?六歌仙なのにひとりだけ百人一首に撰ばれなかった「大友黒主」

「古今和歌集」仮名序で紹介される六人の歌人

 「高野切」

905(延喜5)年、醍醐天皇の勅命により編纂された初の勅撰和歌集である「古今和歌集」。冒頭に、撰者の一人である紀貫之による仮名序があることはご存知でしょうか?

それまで雑多にあり、ただ詠まれていた和歌を初めて論じた歌論書としても価値がある文章です。

その仮名序において、貫之は和歌の歴史を語りつつ六人の歌人の名を挙げています。在原業平、僧正遍照(そうじょうへんじょう)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、小野小町、大友黒主(おおとものくろぬし)、喜撰法師(きせんほうし)。

歌川国貞「六歌仙」

在原業平や小野小町は平安一の美男美女として知られており、僧正遍照は天皇の孫であり位のある僧として知られています。でも、残りの三名はほぼ無名の歌人でした。今回紹介するのは、その無名の歌人のひとり、大友黒主(おおとものくろぬし [大伴とも])です。

大友黒主とは

まずは大友黒主とはどんな人物かを紹介しましょう。

大友黒主は、同音の「大伴」氏とは出自は別です。古来の日本豪族一族である大伴氏とは違い、「大友」氏は渡来系の一族。奈良時代ごろから現在の滋賀県を拠点にしている一族です。

もとは天智天皇、その息子である大友皇子(弘文天皇)に仕えた一族でしたが、大友皇子が天武天皇との後継者争いに敗北してからは不遇の時代が続きます。また、大友黒主の時代はすでに藤原氏が権力を握っていた時代です。地方の大領でしかない黒主の官位は従八位上程度でした。

「古今集」での評価は?

そんな無名の黒主がなぜか貫之によって六歌仙のひとりに選ばれたのです。

さて、肝心の評価はというと、

大友黒主は、そのさまいやし。いはば、薪負へる山人の花の蔭に休めるがごとし

「古今和歌集」(校注・訳:小沢正夫・松田成穂「新編日本古典文学全集」/小学館より)

「大友黒主の歌の姿はひなびている。言ってみれば薪を背負った山人が花の陰で休んでいるような感じ」というもの。ほめているんだかいないんだかよくわからない評価ですが、それでも貫之は六歌仙を挙げ、最後には「この六人以外は本当の歌の何たるかを知らない」と言っているので、黒主のことは歌の神髄をとらえた人物として評価しているのは確かでしょう。

六歌仙でひとりだけ「百人一首」にとられなかった……

貫之によって評価された黒主は、その後の勅撰集「後撰集」「拾遺集」にも和歌がとられています。しかし、藤原定家による「小倉百人一首」には撰ばれなかったのです。黒主以外の六歌仙は五人とも撰ばれているのに。

能や歌舞伎では悪役にされる

『積恋雪関扉』

さらには、後の時代に作られた能「志賀」では、小野小町を辱める悪役として登場します。続いて、歌舞伎の「関の戸」でも天下をねらう大悪人として登場するのです。

「古今集」時代の代表歌人でありながら、のちの世ではいい評価を得なかったことがわかります。優れた歌人であることは確かなはずなのに、ちょっとかわいそうですよね。今後再評価されることを願うばかりです。

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