千五百 VS 十万?薩摩武士の精強さを天下に知らしめた、関ヶ原の戦い「島津の退き口」 (2/5ページ)

Japaaan

「泣くよかひっとべ!死ぬ時ゃ笑って前のめり!」

……とは多分言っていませんが、島津義弘は、敵陣のど真ん中を指しながら、全軍に「退却」を命じました。
※泣くよかひっとべ、とは「案ずるより産むがやすし」の薩摩バージョン(慣用句)です。

御大将を守り抜け!薩摩武士の「捨て奸(がまり)」

さぁ「千五百で十万の敵に突撃」という前代未聞の「退却」が始まりました。元より勝利は期せず、島津軍の目的はただ一つ。千五百人が一丸となって、十万の敵から「御大将・島津義弘を守り抜く」こと。

降りかかる火の粉を払うように、追いすがる敵の大軍を振り切ります。そんな極限状況で島津軍の生み出したのが、後世名高い「捨て奸(がまり)」。

殿(しんがり)の中から火縄銃を持った数名~十数名を残し、迫りくる敵(特に指揮官)を狙撃。次の弾を籠める時間はないため、一度撃ったら火縄銃は放棄して敵に突撃(死ぬまで戦う)。そして時間を稼いだら、次の地点ではまた次の数名~十数名が待ち伏せていて……を繰り返します。

いわゆる「トカゲの尻尾きり」戦法ですが、この手で島津軍は本多忠勝や井伊直政と言った徳川軍の猛将たちを撃退。ついに島津軍は関ヶ原を脱出し、伊勢街道経由で薩摩まで逃げのびたのでした。

とは言え、島津軍も義弘の甥である島津豊久や家老の長寿院盛淳を失うなど多大な犠牲を出しており、薩摩まで生還できたのは義弘はじめ六十~九十名ほどと言うから、彼らの凄絶な「退却」ぶりが察せられます。

なぜ退却に成功したのか?

それにしても不思議なのは、千五百で十万の敵に包囲されながら「なぜ全滅せず脱出できたのか」です。

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