千五百 VS 十万?薩摩武士の精強さを天下に知らしめた、関ヶ原の戦い「島津の退き口」 (4/5ページ)

Japaaan

「島津の退き口」とその成果

島津宗家の定紋「丸に十文字」。

かくして成功を収めた島津軍の退却ぶりは、後世「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれ、薩摩武士の精強さをより一層天下に知らしめました。

その甲斐あって、関が原の戦後に徳川家康が西軍の諸大名(石田三成・毛利輝元・宇喜多秀家・長曾我部盛親・上杉景勝など)を次々と処罰した時も、島津だけは一切「お咎めなし」とされています。

理由には諸説ありますが、何より効いたのは「島津軍の強さ」でしょう。いくらボロボロに負かしたと言っても、島津軍の損害はたかだか千数百。

島津の本拠地・薩摩には、関ヶ原であれだけの戦いぶりを見せつけた島津軍が、数万単位で待ち構えており、それが全員、もう「逃げ場もない」ので死に物狂いで徹底抗戦……考えるだけでもゾッとします。

また、関が原と違って今度は「豊臣秀頼公をお守りする」大義名分がなく、徳川家康の私戦となるため、諸大名を動員できない(むしろ道中、妨害されるかも)……等々、政治的な理由からも、島津には手が出しにくかったのです。

あたかも関が原で「捨て奸(がまり)」となった武士たちの英霊が、薩摩と島津家を守り抜いたように感じます。

その後・ある古武士の涙

さて、関が原から十数年後。

かの死地から生還した中馬重方(ちゅうまん しげかた)という古武士が、鹿児島からやってきた若者たちに関が原での話を聞かせたそうですが、

「関ヶ原と申すは……」

重方はそう語り始めるなり声が詰まり、涙にむせんで言葉が出なかったと言います。

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