【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第17話
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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第16話 ■文政八年 正月(2)ふわり、と宙を舞い、みつは国芳の腕の中に飛び込んだ。国芳はみつの身体の重みを受け、そのまま地面に尻もちをついた。痛ってえと国芳は呻いたが、腕にしっかりみつの身体を抱き止めている。
「あははっ」
傍にいた幼い禿(かむろ)の一人が大声で笑った。
子どもたちの笑顔の輪はたちまち広がり、大きな大輪の花になった。
吉原遊廓に、誰も聞いたことのないような子どもたちの笑い声が響いた。
国芳がみつの肩を掴んだ。
「おみつ、聞いてくれ」
大きな目に強い光を宿し、いつになく真剣に言った。
「確かにわっちゃア下手くそでつまらねえ絵ばかりだし、金もねえし、浮世絵師と呼ぶにゃアあんまりお粗末かもしれねえ。でも、わっちゃあ絶対エ諦めねえ。めえの目に届くまで何度でも何度でも、色でいっぱいの鮮やかな絵、描き続ける」
「うん」
かすかにみつは頷いた。
「もっともっと頭ア捻って、最後の一滴まで絞り出して、めえがびっくり仰天して笑い転げるような、今までにねえ楽しくて面白え絵、たくさん考える」
「うん」
「江戸中に名の轟く立派な絵師に、絶対なってやらア」
「うん」
みつの手にひやりとしたものが触れて、驚いて自分の頬に手をやると、気がつかないうちにぽろぽろと涙がこぼれていた。
国芳はなお、絞り出すように力を込めて言った。
「それでいつか、めえをここからかならず連れ出す」。
みつは一瞬動きを止めて、まん丸な目いっぱいに涙を溜め、そしてまっさらな笑顔で強く頷いた。
「うん・・・・・・!」
もう、誰に何を聞かれていようが構わない。
どんな折檻も仕置きも、国芳がいるのなら何の事はない。
「だから」、
みつの視線と国芳の視線が、深く絡み合って一つになった。
「めえもそれまで、絶対諦めんな!」・・・・・・
みつは思った。
嘘でもいい。
夢物語でもいっそ、構わなかった。
誰かがこんな言葉をくれる瞬間を、どれほど待っただろう。
十数年間もがいていた真っ黒な泥濘(どろ)の中から、今ようやく解き放たれたような気がした。
これからはどんな時も、国芳が傍にいる。
二人は、互いを掻き抱いた。
「おみつ」、
国芳は玻璃に触れるような優しい手つきで女のまとう小袖に触れ、
「この小袖、たんぽぽと同じ色だ」
と言った。
みつは濡れた睫毛を上げた。
装いは花七宝の小袖、その上の長羽織は丹念な仕立ての総絞り。どちらも陽光で染めたような温かな薄黄色が、よく似合っていた。
「岡本屋のお内儀がめえに似合うと選んでくだすったんだ。おみつ」、
国芳はみつの手を取った。
「たんぽぽの色オ見せてやらア。目エ、閉じねエ」
みつはそっと目を閉じた。ふっくらとしたまぶたが、桜貝のように色づいて美しい。色のない世界に生きながら、なんと美しい色を持って生まれてきた女だろうと国芳は思った。
国芳は掴んだみつの細手首を、空に向かって突き出した。みつの繊手が陽光を受けて白く透きとおった。
「お天道さまに手のひらをかざすと、手に光が降ってくるだろう」、
「うん」
ほとんど避けるようにしてきた陽の温もりが、美しい輪を描いて手のひらにきらきらと降りて来るのが伝わった。
「あったかくて、心にぽかぽか元気が湧いてきて、笑顔になって、思いっ切り野ッ原を駆け回りたくなるだろ」、
「うん」
「そんな色だよ。たんぽぽは」
国芳は他の誰にも見せない優しい表情で、優しい声音でみつを包み込んだ。
「おみつの、色だ」。
その瞬間。
その瞬間だけ、みつの閉じた瞼の裏に色が溢れた。
少女は、美しい野原にいた。
柔らかな陽射しが雨のように草花をぬらし、若草は金緑に輝く。
幾千もの黄色い花の海が渺々と広がり、綿毛が風に舞うその中を、燃えるような緋色のべべを着た小さなみつが大勢の子どもたちと一緒にはだしで駆け回っていた。手には凧糸、透きとおる露草色の空には極彩の凧がたなびく美しい風景。・・・・・・
みつは瞼をゆっくり持ち上げた。
目の前に、熱い目をした男が立っていた。
「馬鹿だね、国芳はんは。こんなに沢山、下手くそな絵凧作っちゃってさ。こんなに沢山、あたしなんざのために、こんなに沢山、ほんに馬鹿・・・・・・」
馬鹿で結構だ、と男は笑った。
「めえが笑ってくれるなら、わっちゃア馬鹿にでも何にでもなるさ」
みつは声を上げて泣いた。吉原の大門を潜った時からこんな風に泣いたことのないみつは泣くのが下手くそで、泣きじゃくるうちに自分が泣いている理由を忘れてしまった子どものように困惑しながら泣いた。
国芳はみつを腕の中に収め、じっとそれを聴いた。
ひとしきり泣いた後、緻密な線で濃厚に描き込まれた沢山の凧の空を見上げ、みつはぽつりと言った。
「あたしやっと、あんたの後ろに咲く花になれたんだね」
ん、なんか言ったか、と国芳が言った。
ううん、なんでもないとみつが首を振った。
「ホラ、おみつも早く凧、揚げようぜ」
「うん。・・・・・・」
約束というものは、波紋も澱もない水面に似て、ひどく穏やかで透徹している。みつがそれを知った時、ずっと咲かずにいた吉原の花が一輪、随分遅れた花をほころばせた。(第1部 了)
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