石原裕次郎、高倉健、ビートたけし…「昭和のアウトロー」豪快伝説

日刊大衆

石原裕次郎、高倉健、ビートたけし…「昭和のアウトロー」豪快伝説

 圧倒的な存在感を持つ往年のスターたち。現在ではありえない、舞台裏でのシビれるエピソードを大紹介!

 映画が娯楽の王様だった時代、各映画会社に看板となる大物スターがいた。「当時、ケタ違いのギャラを稼いでいた主演スターは、共演者やスタッフに振る舞う文化がありました。スターは、いかに豪勢に、かつスマートに立ち回るかが問われました」(ベテランの映画スタッフ)

 その点で、日活の金看板だった石原裕次郎は、やはり格が違ったようだ。「たとえば、地方ロケのときは、わざわざ赤坂あたりから芸者を呼んだ裕ちゃん主催の大宴会がある。そこでは、自身が誰よりも楽しむことで、参加者に気を遣わせなかった。そうしたことが、裕ちゃんは実にうまかった」(前同) 当時の裕次郎はまだ20代半ばの若さだったのだから、驚きと言うほかない。

 東宝の大スターである三船敏郎も豪傑だった。“世界のミフネ”は、酒を飲むと真剣を振り回すなど、酒乱の気があったという。だが、シラフでの逸話が抜群にカッコいい。「台風で川が氾濫し、当時、三船宅があった成城周辺が水没したことがあったんです。そこで、三船は所有していたモーターボートを駆使し、避難できずにいた18人の住民を救助したんです」(映画ライター)

 また、長男の三船史郎が、さるイベントで披露したエピソードもイカす。「史郎さんが子どもの頃、学校の運動会がたまたま母の日当日になった。すると、三船さんは小型飛行機を操縦して、運動会をやっているグラウンド上に飛来。で、上空から大量のカーネーションの花束をバラ撒いたといいます」(前同)

 大映の顔として君臨した勝新太郎もまた、豪快なエピソードに事欠かない。「昭和30年代後半、サラリーマンの平均月給は1万円程度でしたが、勝新は映画1本で500万円を稼いでいました」(同)

 そのうえで、いくら金があっても足りないような遊び方をしていた。著書『生き残る芸能人のすごい処世術』で数々の大物芸能人の豪快な素顔を綴った、芸能レポーターの城下尊之氏は、こう語る。「勝は飲んでいると周囲の人にも振る舞ってしまい、100人も引き連れて銀座のクラブをハシゴしたというのは有名な話。大変なツケを残したまま亡くなりましたが、ほとんどの店のママたちは“もういいわよ”と、そのツケを回収することはありませんでした。勝が飲みに来ると、ママは店に来ている大企業の社長らに勝を紹介する。勝は、持ち前のサービス精神と繊細な気遣いで、その社長らを大いに楽しませてしまう。“勝新と飲んだよ”“飲み友達になった”と大喜びで社長らは帰り、その店の太い客となります。店の評判も大いに上がるため、ツケを補って余りある恩恵を、勝は多くのクラブに与えていたんです」

 また、飲み方のキレイさにも定評があった。「一度、銀座に飲みに連れて行ってもらったことがあるんです。勝さんは、自ら焼酎の水割りを作って周囲に配っていました。真っ赤になってしまった僕に勝さんは、“自分のペースで飲めばいいからね”と優しく声をかけ、場が下品な話になりそうになると、パッと自分が話題を引き取り、楽しい話に変えるという気の遣い方でした」(前同)

■菅原文太は酒癖がよくなかった

 豪快スターの宝庫といえるのが東映だ。「黄金期の時代劇を作っていた京都撮影所では、スターが祇園で豪遊したり、大盤振る舞いをするのが常。典型的な例が中村錦之助(のちの萬屋錦之介)でしょう」(スポーツ紙記者)

 錦之助は自らの豪邸にスタッフや出演者を招き、連日、大宴会を開いていた。その影響を多大に受けたのが松方弘樹で、彼の辞書に「割り勘」という言葉はなかった。「主演映画やドラマの撮影がクランクアップすると、100人前後のスタッフ、キャストと高級焼肉店を貸し切って打ち上げ。年間十数本の主演作がありましたが、毎回、200〜300万円の支払いはすべて松方持ちでした」(前出の城下氏)

 さらに、こんな逸話も。「自らプロデュースした映画がヒットしたときは、飛行機をチャーターしてスタッフや出資者をハワイに招待。こうして、稼ぎをすべて使い切ったといいます」(前出のスポーツ紙記者)

 松方はまた、オンナも大好物だった。「千人斬りの噂がありましたが、これは本人が晩年に一部を訂正しています。一生に千人ではなく、1年に千人だと(笑)」(前同)

 その松方と東映実録路線を支えた菅原文太も、夜の街を愛した。「文太さんは酒癖があまりよくなかったようで、店の女性たちにはあまりモテなかったと聞きます」(映画関係者)

 その反面で文太は、仕事に対しては一本気だった。2011年に東映の岡田茂名誉会長(以前は社長)の葬儀で、文太による弔辞に、こんな一節があった。〈岡田さん、もう喧嘩もできなくなりましたよね。よく、怒鳴られ、怒鳴り返したこともあった〉「つまり、東映の首領であっても、納得がいかないことがあれば、食って掛かっていた。今、映画会社の社長に歯向かう俳優なんていない」(前同)

 一方で、東映の大黒柱・高倉健はどうだろうか。「バンカラ学生時代は赤線通いをしていたという説もありますが、スターになってからは銀座や祇園で豪遊することはなかったとか。でも、健さんは決してケチではない。なにしろ、共演者や世話になったスタッフにまで、ロレックスの高級品をポンとプレゼントするんですから。しかも、〈高倉健〉の名前入り。そんなことをされたら、みんな感激して健さんシンパになってしまう」(出版関係者)

■やしきたかじんは、ぼったくりバーで倍額を叩きつけた

 他のジャンルにも、豪快伝説を持つスターがいる。関西喜劇界の大物・藤山寛美は、常に数百万円の現金を持ち歩き、それを使い切ることを好んだ。

「タクシーの初乗りが100円の時代に、短い距離でも、ドライバーに1万円札を渡して釣りを受け取らなかった。どうやら“寛美はすごい”と噂話が広がることを計算してのものだったようですが(笑)」(関西の演芸関係者)

 のちにこれを受け継いだのが、やしきたかじんだ。「高級クラブをハシゴするのが好きで、入った店で1杯飲んだら、すぐに次の店に。そこでもまた同じことをやる。店から店への移動は、どんなに近くてもタクシーに乗り、ドライバーには、“釣りは取っといてや”と1万円札を渡していたといいます」(前同)

 また、トミーズ雅の証言によると、たかじんは“ぼったくりバー”で、ビール2本で5万円を請求されると、「ぼったくりバーなら10万円は請求せんかい!」と、1万円札を10枚叩きつけたというのだ。

 関西勢でいえば、横山やすしも強烈な人物として知られる。「東京で怖いお兄さんに絡まれたときに“お前らがエラそうにできるのは、この周辺だけやろ? ワイは全国ネットや”と、やり返したという話を聞いたことがあります」(関西のテレビ関係者)

 こんなエピソードも。「飲食中に時計を気にする関係者の腕時計を取り上げて、煮えたぎる鍋の中に放り込んだとか」

 かたや、東の芸人で型破りなのが立川談志だ。「若い頃から自由奔放で、師匠の柳家小さん(先代)から80回も破門になっています。口論から取っ組み合いのケンカになることもあり、落語会の超大物である小さんにヘッドロックをかけていたという話は有名です。ただ、小さんも、そんな談志をかわいがっており、その都度、破門はなかったことになっていました」(放送作家)

 談志が落語協会を離れ、「立川流」を立ち上げたあとは破門のままだったが、以後も交流はあった。

■1億円奢ったビートたけし

 その談志と関係が深かったビートたけしもまた、昭和芸人の豪快さを受け継ぐ貴重な一人だ。「たけしは金払いのよさもあり、とにかく人望は厚い。ガダルカナル・タカによれば、奢ってもらった総額は1億円を超えるとか」(夕刊紙記者)

 また、女遊びも一味違う。「軍団を引き連れて、川崎の店を貸し切ったことがありました。もちろん支払いはすべてたけしですが、この遊びにはルールがあって、部屋の鍵をかけちゃいけないんです(笑)」(前同)

 さらに、その後の反省会もお約束。「軍団らの感想を聞くうちに、自分よりいい思いをしていることに腹が立ってきて、“バカヤロー、俺の女が一番だったんだよ!”と怒り出すのも、お約束だったとか(笑)」(同)

 たけしと並ぶ、お笑い界の大物・タモリにも、粋で太っ腹な逸話がある。タモリが、大学を中退して職を転々としているところを、漫画家の赤塚不二夫に見出されたのは有名な話。赤塚は、自宅に住まわせてタレントとして売り出した。結果、タモリは芸能界で大成功するが、時代の流れとともに、赤塚は連載がなくなり、収入が減った。

「するとタモリさんは、赤塚さんに自分の会社の顧問になってもらい、毎月、赤塚さんのプライドが傷つかない程度の金を振り込んでいたようです。また、“あの車、乗ってないなら譲ってよ”と、わざと横柄に頼んで、赤塚さんが所有する、ふだんはあまり乗らない車を高値で買い取ったともいわれています」(前同)

 かくも粋なスターたち。コンプライアンスうんぬんが何かとうるさい今だからこそ、彼らの魅力は一層、際立つのである。

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