潜伏キリシタンに対して行われた当時の葬儀「経消し」とは?

心に残る家族葬

潜伏キリシタンに対して行われた当時の葬儀「経消し」とは?

大阪市中央区に、玉造カトリック教会という美しい教会がある。清らかで堂々とした佇まいの聖マリア大聖堂、その入り口には、細川ガラシャ夫人と高山右近の像、内部にも、この両者を題材とした聖画が飾られている。また、この大司教区現任の前田万葉大司教は、日本のキリスト教史と深い繋がりを持つ、長崎県五島列島の出身だ。ここを訪れると、日本とキリスト教について考えずにはいられない。今回は、その長い歴史の一部分を振り返りつつ、当時の葬儀について考えてみたい。

■潜伏キリシタンの葬儀

江戸時代、幕府によるキリスト教禁教令が発令されると、当時のキリスト教徒達は強制改宗を迫られ棄教を余儀なくされた。しかし、その後も多くの信者達は、仏教徒として振る舞いながら、独自の聖具を使って密かに信仰を守り続ける「潜伏キリシタン」となって行った。
潜伏キリシタンの信者が死亡すると、表向きは寺請制度に従い必ず仏式の葬儀をあげなければならない。しかし、そうなると、キリスト教徒の「パライゾ(パラダイス)」へは行けなくなってしまう。そこで彼らは「経消し」と呼ばれる二重の葬儀を考え出した。

■「経消し」とは?

「経消し」は、まずは僧侶による仏式の葬儀が行われ、それと同時に、別室で潜伏キリシタンたちが「オラショ」と呼ばれる彼ら独自の祈祷文を唱えて仏教の経文の効力を消すのである。そしてその後、キリシタン式の葬儀をあげる、というものだった。

彼らは主に九州地方で小さな集落に分かれ、このような葬儀を含む独自の信仰を、200年以上も守り続けた。

■カクレキリシタンのカクレがカタカナである理由

明治6年、禁教令が解かれ、信仰の自由が認められたが、当時の潜伏キリシタンのうち、半数もの人々がカトリックに復帰しなかったと言う。その理由は、禁教令により宣教師が国外追放となった後、200年以上も指導者不在のまま信仰が伝承されたために、カトリック本来の解釈が失われて行った事、また、長い年月の間に、仏教や神道など、表向きであったはずの日本の民俗信仰の影響を受けて、潜伏キリシタンの信仰が、カトリックでも仏教でもない、彼ら独自の信仰様式となって行った事によるところが大きい。このように、カトリックではなく潜伏キリシタン独自の信仰を選んだ人々を、現在では便宜上「カクレキリシタン」と呼んでいる。「カクレ」とカタカナ表記になっているのは、現在では隠れる必要がないからである。

長崎市外海地区などでは、今も彼らの子孫が少数ながら存在し、二重の葬儀も、昭和初期頃までは執り行われていたという事実を知って驚いた。もちろんその頃には隠れる必要はなかったため、先祖代々の風習を大切にしたいという気持ちから、受け継がれていたのではないだろうか。

■長崎と天草地方の潜伏キリシタンが世界遺産に登録

昨年、五島列島を訪れた知人はこう話していた。

「五島は信仰がごく自然で身近な所。それも多くの殉教者を出しながらも守られて来た、強い信仰の地だからだろう」

2018年5月、前田万葉大司教が、ヴァチカンより枢機卿に任命された。日本人として6人目の枢機卿誕生である。そして6月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、世界文化遺産に登録された。この夏、多くの観光客が、この地を訪れることだろう。平和な現在を見て、殉教者達はどう思うだろうか。

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