【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第23話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第23話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第21話

◾文化八年 夏

しばしば夢に見る光景がある。もう十年以上前の事だ。・・・・・・

「てえへんだ!」

すぱんと障子をあけて、兄弟子の一人が叫んだ。

「品川にクジラが打ち上がってるってよ!」

大画室がどよめいた。

「芳、行くぞ!」

誰が立ち上がるよりも早く、いの一番に国芳の首根っこをつかんで引っ張り上げたのは、なんと師の豊国であった。

「父っつぁん!?」

「早くしろ」

いつも話しかけてくる訳でもないのに、なぜ急に自分が選ばれたのか訳も分からずに国芳は立ち上がり、豊国の後を追いかけた。

「父っつぁん早えよ」

「てめえ、クジラだぞ。見逃してたまるか?」

「そりゃア、たまるめえよ!」

国芳は生き生きと答えた。

嬉しかった。

たとえこれが、師と弟子としてではなく、親父が孫を見世物小屋に連れて行くのと同じような心境から発した行為であったとしても、それでいいと思えるほど、国芳は嬉しかった。

陽光を反射して、江戸前の青海波が燦爛とした。

日本橋上槙町の豊国の工房から品川に出るには、ひとたび外に出たら後は南にまっすぐ降りてゆく。青物市場が並ぶ大根河岸を抜け、京橋を渡り、木挽町の芝居小屋を横目にひたすら南を目指すと、やがて空気が凛と澄んでくる。鼻先につんと潮風の匂いが触れれば、その向こうに広がるのはもう、風光明媚な江戸前の景色である。

吸い込まれそうな縹色の海は、まるで水面に金銀の錦糸で緻密な刺繍を施したかのように絢爛豪華にきらきらと輝いた。振り返ると彼方に御殿山の桜が、枝の先を既にほの紅く染め始めているのが見えた。

一歩前をのしのしとゆく豊国が、周囲を見回しながら国芳に問いかけた。

「どうだ、芳。それらしい人集りが見えるか?」

「父っつぁん。あすこじゃアねえかえ」

国芳は遠方の浜の人集りを指した。

鯨のようなものはまだ見えない。

「よし、寄ってみるぞ」

「あいよ!」

二人が駆け付けると、はたしてそうであった。

「ウワア、でっけえなあ!」

喧々たる人集りの奥に、八、九間はあろうかという大鯨が黒々とした巨像を横たえている。

「ハア、これアすごいねえ」

国芳はしきりに感嘆を漏らした。鯨というものは、図鑑で見たことがある。今目の前に横たわっているのは背美鯨(せみくじら)という種類である。背美鯨は他の種と比べて下顎がやたらと大きく、口がしの字を横に倒したような不思議な形に湾曲している。体型は寸胴ではあるが小山のように盛り上がった背中の曲線が非常に美しいという意味で、その綺麗な名がついた。雌の体長は十間以上になり、雄はそれより一間ほど小さいというから、この個体は恐らく雄だろうと国芳は思った。紙の上でしか知らなかったものを初めて目にした感動は、呼吸が止まるほどであった。国芳は興奮のあまり、まだ全体が見える前から矢立を取り出して帳面にスラスラ描き始めた。人が余りに多いために、まだ背が低い国芳はぴょんぴょん跳ねながら観察しなくてはならなかった。背美鯨に似て顎の大きな豊国が呆れて、

「おめえ、ちょいと落ち着け。もちっと近寄らなきゃ・・・・・・」

「なあ、父っつぁん」

師の説教くさい言葉に被せるように、国芳は豊国の肘を指で突ついた。

「ん?」

「あの鯨、まだ生きてるぜ」

「ん、そうかえ」

「目を凝らすと、時々、ヒレがね、微かに動くんです」

「ほんにか」

「ホラ!見てくだせえ」

「ん?・・・・・・」

国芳が指を指しても、豊国には良く分からない。

(こいつ、観察眼がずば抜けていやがる)

豊国がこっそり感心している傍らで、

「助けなきゃ」、

「あ?」

「助けなきゃ、死んじまわア」。

身軽な国芳はもう尻からげして、ひょいひょいと見物人の股の間を潜り抜け、あっという間に見えなくなった。

「あ!オイ!ちょいと待ちねえ!」

豊国は慌てて、人ごみを掻き分けた。

「どいたどいた!こいつアまだ、生きてやすぜ!」

お、何やら騒々しいガキが出てきたぞ、と見物人たちはざわめいた。

「ちょいと皆さん!見てねえで、手伝ってくだせえ!」

国芳は一人で鯨の頭に両手を当てて、力を込めながら叫んだ。鯨から生々しい臭いが漂う。傍に居た漁師の男が、

「おい、小僧。こんなところに流れてくるのは珍しいんだから、活きのいいうちに掻っ捌いて、食っちまえばいいじゃアねえか」

と言うと、国芳はかぶりを振った。

「いや、駄目でさア。おいらア、こいつがこの江戸前で元気に飛沫上げて泳ぐ姿を描きてえんだ」

「何?おめえ、絵描きか?」

「まあ、将来的には」

国芳はうーん、うーんと唸りながら鯨の頭を押す。冷たい皮膚表面は張りがありつるりとしていて、何より一人で押して動かせるような代物では、到底ない。

「こいつ、本気かよ」

「本物の馬鹿っているんだな」

「ったく、仕方ねえなア」

国芳の周囲は呆れたように言いながらも、江戸ッコはこういう馬鹿らしい事が大好物なのである。わらわらと任侠風の男共が鯨の頭の周りに集まり始め、やがて男も女もしまいには子どもまで手伝って、打ち上がった鯨を海に帰そうと国芳と一緒に大鯨の巨躯を押し始めた。国芳は嬉しくなって皆と一緒にがむしゃらに押した。ところがいくら押してもさすがに十間近い大鯨はびくともしない。しばらくすると腰が砕けそうになり、国芳は手を止めた。

「こりゃ、てんでんばらばらで押しても意味がねえ」

少し思案して、

「あ、父っつぁん!父っつぁんッ!」

国芳はいつのまにか隣で一緒になって鯨を押していた豊国に声を掛けた。

「なんだこのヤロウ!」

豊国は背美鯨に似たしゃくれ顎を突き出し、歯を食いしばって返事をした。

「父っつぁん、ここにいる全員を今から父っつぁんが一つにまとめてくだせえ!」

「はあ?」

「まあ一つ、見ててくんねえ」

身軽な国芳は大きな鯨の上にぴょんと飛び乗った。

「エー、皆!ちょいと聞いつくんねエ!このマヌケな大鯨のために手伝ってくれてありがとうごぜえやす!このままてんでばらばらに押しても埒があかねえんで、ここは一つ、音頭を取って息を合わせようと思いやす!音頭を取るなア、おいらの絵の師匠にして天下の大浮世絵師、歌川豊国先生!」

「エ!」

「豊国だと!」

江戸ッコたちは一気に色めき立った。この中に本物の歌川豊国の顔を知る者は恐らくいない。しかし、豊国の指先から生み出された錦絵の数々は、江戸ッコならば誰しもがよく知っている。知っているどころの話ではなく、ひとたび新しい摺物を売り出せば皆がこぞって地本問屋に押しかけて買い求める、押しも押されもせぬ大御所絵師である。視線を一手に受けた豊国は、驚きながらも怯む様子はなく、内から鷹揚たる威厳を滲ませていた。誰が聞かずともその立ち姿こそが本物の歌川豊国である事を物語っていた。

「たぶん、本物だ!」

「本物の歌川豊国だ!」

彼方此方から声が上がるのを制し、国芳は続ける。

「今から、父っつぁんのエイエイオーの掛け声で、皆一緒にこの大鯨を押してくだせえ!」

「ふうん、面白え」

「乗ってやろうじゃねえか」

興奮した声がそこかしこから飛んだ。

国芳がしめたと手を握り込んだ時、直ぐ傍で国芳を見上げている一人の前垂れの娘が目を輝かせながら孫三郎に訊いた。

「上手くいったら豊国の絵、おくれよ?」

国芳はちらりと豊国を見遣ったが、こちらをギロリと睨みつけているのを見てこほんと咳払いした。

どうやら不承知である。

「エー、この鯨が海に戻った暁にア、お返しに、おいらがいつかかならず皆が喜ぶ鯨の絵を描いて、皆に差し上げます!これア、約束でさア」

途端に彼方此方から不満の声が上がった。

「豊国の絵じゃねえのかよ!」

「おめえは誰だクソガキ!」

マアマア、と国芳は聴衆を宥めてすうと呼吸を吸い込むと、奥の品川宿に届くほど大きな声で一気に啖呵を切った。

「おいらア、歌川豊国が門弟、歌川国芳!ガキはガキでも、十年後にゃアかならず江戸一の絵師になるクソガキでい!」

聴いていた者は猫も杓子も皆が笑った。

「なかなか言いやがるな、このガキ!豊国先生、こいつが江戸一になるってえのは間違いねえんですか!」

「アア」、

豊国は鯨の上の国芳を見上げて、その肩越しの日輪の眩しさに目を細めながら頷いた。普段への字に引き結び、あまり弟子が喜ぶ事を言わないその口が、噛みしめるようにその言葉を紡いだ。

「違げえねえとも」。

「え、父っつぁん、今なんて・・・・・・」

国芳が訊き返そうとしたのを遮り、

「豊国先生が言うなら間違いねえ。てめえら!やるぞ!」

江戸前の人々が威勢良く立ち上がり、こうして豊国の掛け声で大人数が力を合わせて鯨を押す事となった。

「エイエイ」を豊国が言い、「オー」の時に一斉に皆で押す。そうこうしているうちに、江戸前で歌川豊国が指揮を執って打ち上がった鯨を海に返そうとしているという噂は瞬く間に宿場全体に広まり、どんどん人が集まってきた。漁師、旅客、商人、飯盛女などが入れ替わり立ち替わりとめどなく鯨を押し続け、それでもビクともしないとなると国芳はいよいよ見かねて、

「コリャアいけねえ。なんか綱、持ってくらア」

国芳が船の片付けをしている漁師たちに手早く事情を説明すると、太い綱を貸してもらえた上に漁師たち自身も手伝うと言って三人ばかし付いてきた。

「父っつぁアん!」

「エイエイ・・・・・・何だア!芳!」

興に乗ってきたのか大声で掛け声を発していた豊国が振り返った。目の先に、無邪気な笑顔の孫三郎が映る。

「網持ってきたぜ!この優しい漁師さんたちがね、貸してくれたんでい」

「ああ、そりゃありがてえ。まあ、そもそもわっちが何故こんなに必死になって鯨を助けようとしているのかさっぱり分からねえがな」

国芳はニヤリとした。

豊国もその顔を見てニヤリとし、

「ようし!網を鯨の身体に括るぞ!力自慢の旦那たちゃア海に入って、この網で一緒に鯨を引っ張っつくんねい!他は、陸で鯨を押すぞ!」

生き生きと声を張った。

気がつけば、国芳が鯨が生きていると気が付いてから、一刻半ほど経っていた。

海はまだ凍るほど冷たいというのに、その人集りだけ、やけに大きな熱気を発散している。

まだ十六で大人より体力の少ない国芳は寒さと鯨の重さでもうヘトヘトであったが、他の男たちの掛け声に逆に支えられながら網を引いていた。

「エイエイ!」

「オーッ!」

これが何度目の掛け声であろうか。

いよいよ国芳の意識も遠くなろうかというその瞬間であった。

綱が、今までにない手応えで動いた。

「!?」

男たちが飛沫に阻まれながらも目配せを交わし、渾身の力で綱を引いた。

少しずつではあるが、確かに、巨大鯨の身体が海の方に引き寄せられている。

「あと少しだ!行くぞオ!」

「オーッ!」

それを幾度か重ねると、ついにドウッと一気に鯨の黒々とした身体が海に雪崩れ込み、孫三郎をはじめ綱を引いていた者たちは慌てて脇に飛び退いた。

背美鯨の美しい背中の曲線が、大きな水鞠をはじいて輝いた。

鯨は何か言いたげに江戸前の海を悠々と旋回し、やがて海の中に見えなくなった。

「無事、海に帰ったのか」

「・・・・・・ヤッタア!」

江戸ッコたちは皆一様に濡れ鼠になって、抱き合って喜んだ。国芳は揉みくちゃにされながらも咄嗟に矢立を取り出して、鯨が悠々と海に戻る様子を描きつけようとした。が、

「ずぶ濡れで描けねえし読めねえ!」

こうなれば仕方ない。

(今はもう、いいや!)

頭の中に焼き付けておくよりほかない。幸い、この一刻半、鯨を押しながら仔細に観察する事もできた。

(それより。・・・)

視線が、ぴたりと合った。

ずぶ濡れの国芳と、陸の上の豊国と。

二人はどちらともなく駆け寄って、ひしと抱き合った。

「やった!やったよ!父っつぁん!」

「やった!やったなア!芳!」

それは、本物の父親とも交わしたことのない、力強い抱擁であった。

・・・・・・

無事に鯨を海に返し、師弟二人肩を並べて歩く帰り道、国芳は豊国にずっと訊きたかった事をついに口にした。

「なあ、歌川の絵って何なんだ、父っつぁん」

国貞がいつも口うるさく言うあの言葉の意味を、国芳は知りたかった。

豊国が答えた。

「夢を描くのさ、人の」

「人の、夢・・・」

「例えば贔屓の役者がいて、その役者が年老いた時にその皺や老いを絵師がそのまま錦絵に描き出しちまったら、絵を手に取る者は皆がっかりするだろう。歌川の絵師はそういう事はしない。ただひたすら、人の夢を描く。浮世は、夢よ」

「それって、嘘じゃねえか」

国芳がぽそりと言うと、豊国は少し困った笑みをして空を振り仰いだ。

「嘘じゃなくなっちまったら、それアもう浮世じゃねえ。ただの、くだらねえ現実だ。・・・・・・」

視線の先には、藍甕に浸して染めたのではないかと思うくらい澄んだ青をした、綺麗な空がある。

「だが、わっちのやり方が全てだとは思わねえ。夢の描き方は他にまだあるかもしれねえ。よく聴け、芳。人が何と言おうが、おめえはおめえの思う夢を描けばいい。下手に優等生ぶろうとして、つまらねえ絵師にだけにゃ絶対になるんじゃねえぞ」

あと、と豊国が工房に着く前に一つだけ付け加えた。

「この話は、国貞には内緒な」

こんな事を奴の前で言ったら怒るからな、わっちとおめえだけの秘密だ。・・・・・・

その「秘密」という言葉の響きが、国芳の胸をくすぐった。

やがて二人は上槙町の工房前の露地に着き、国芳がいつも通り左に折れようとすると、豊国は右に折れようとした。

「じゃあな」

豊国が急に手を振った。

「じゃあなって、父っつぁんどこに行くんでい。工房は左だろうがよ」

「おめえは左に行け。わっちゃア行かなきゃならねえ場所がある」

「父っつぁん、そんならおいらも付き合うよ」

「駄目だ」

(あれ・・・・・・)

国芳は初めておかしいと思った。

急に身体に力が入らなくなり、腕一つも上がらない。

そうしているうちに、豊国のあごの張った優しい笑顔が遠のいてゆく。

「芳、達者でな・・・・・・」

何故気が付かなかったのだろう、手を振る豊国の顔がひどく青白い。

(父っつぁん・・・・・・!)

(父っつぁん!父っつぁん!)

その名を呼びたいのに声が出ない。

その手を掴みたいのに、腕を伸ばす事も出来ない。

置いて行かねえで。

わっちも連れて行って。

父っつぁん。・・・・・・

「父っつぁん・・・・・・!」

はっと目を覚ますと、佐吉が見事な切れ長の目で心配そうに国芳の顔を覗いていた。

「大丈夫か。随分うなされていたぜ」

「朝か」

「朝だよ。朝餉は蝿帳の中に・・・・・・」

「わっちゃア、行かなきゃなんねえ」

国芳は飛び起きた。

慌てて房楊枝を咥え、うがいをし、どてらに三尺帯を締めて立て付けの悪い腰高障子の外へ飛び出した。

おはよう、おはようとすれ違う長屋の人々の間を縫うように駆け抜け、木戸門をくぐる。

「何であんな大事な事を忘れられたんだろう」、

つまらねえ絵を描くなと、初めてわっちに教えてくれたのア、父っつぁんだったのに。

・・・・・・

◾文政八年、一月

朝五つ。

仕事に出始める町の大工たちにぶつからないように右に左にと避けながら、国芳は小さな親父橋渡った。尻からげの行き交う本舩町の魚河岸の賑わいもいつもなら足を止めて知り合いの一人にも声を掛けるところだが、今日は目もくれず通り過ぎた。

緩やかな半月を描く日本橋を渡り、縄縛りの罪人が頭を垂れる大高札場を横目に過ぎて日本橋通りの四丁目を右に入るともう、懐かしい工房に着いた。

ほんの一瞬生じた迷いを振り払い、国芳は十余年ぶりに豊国の住まいの敷居を跨いだ。声をかけるとすぐに女中が現れ、土けむりにまみれた国芳に水盥を差し出した。よほど鬢の乱れが気になったのか櫛まで貸してくれ、国芳が足を洗って鬢を整える間に、女中は奥へ人を呼びに走った。

「はいはい、どちら様。・・・・・・あら」、

奥から国芳を迎えたのは、豊国の内儀のおそのであった。おそのは国芳の顔を見てひどく驚いた表情をした。

「・・・・・・国芳さん?」

「お久しぶりでござんす」

国芳は気恥ずかしげに腰を低くして挨拶した。

「本当!久しぶりね!良い男になっちゃって!まあまあ、ようこそいらっしゃいました」

おそのは懐かしそうに声を上げた。おそのは豊国が四十を越した頃に僅か十六歳で嫁した身だ。その頃と比べれば年増になったとはいえまだ三十そこそこで、年齢だけいえば国芳が一番近いくらいだ。多少の面やつれは見えるものの頬はもちのようにまあるく、細い鼻に円らかな目を持つ美しい内儀である。

その背後の部屋から、十歳そこそこくらいの可愛らしい少女がちらりと顔を覗かせた。

「おきんちゃん・・・・・・?」

国芳はおずおずと訊いた。おきんとは豊国の娘の名である。国芳が知っているおきんは、まだ生まれたての小さな赤ん坊であった。おきんは小さな顔を真っ赤に染め、慌てて顔を引っ込めた。

「あら、きんったら照れてしまって。ご無礼お許しくださいましな。あの子も大きくなったでしょう」

「ああ、本当に・・・・・・!」

国芳は驚嘆した。

おそのが言うにはおきんの手習い事が多く、平素おそのはそちらに付きっ切りで離れられないために、豊国の事は国貞を主とする弟子たちが交代で看ているという。

「女の子は嫁入りまでに色々習わせる事があるから大変です」

「もうそんな年齢なんでやすか」

「ええ、あの人が歳を取るはずです」

さらりと、おそのは豊国の話を出した。

「あの、実は本日は先生の見舞いに・・・」

国芳は、手土産として照降町翁屋太兵衛の翁せんべいを差し出した。佐吉が気を利かせて持たせてくれたのである。

「あら、ありがとうございます」、

あとでお茶と一緒にお出ししましょうね。

おそのはそう言って、細い指を揃えそそとしたしぐさで包みを受け取った。

「あの人に、早くその元気そうなお顔を見せてやってくださいな・・・・・・」

おそのに促され、奥の病床に国芳は通された。

「あんた、国芳さんが戻りましたよ。・・・・・・開けますよ」

おそのが一声かけて、障子を開いた。

国芳は、顔を上げた。

あんなに賑やかだった人が、悲しくなるほど静かな部屋の中央にひっそりと身を横たえていた。

奥に、国貞がまるで通夜のように佇んでいる。彼は床の間に据えられた花器を手入れしていた。芍薬の花が一つ悪くなり始めているのが気になるらしい。

国貞は一瞬顔を上げて国芳を見て頷くと、先生にご挨拶するようにと手振りで促した。おずおずと入った国芳は一人、豊国の枕頭に座った。

眠る師の顔を覗き込み、この人はこんな顔だったろうかと思った。国芳の知っているこのあごはもっと背美鯨のように張り、国芳の知っているこの頬はもっと赤みが差してふくよかで、国芳の知っているこの髪にはもっと艶があり弾けるような生気が通っていたのではなかったか。

「父っつぁん」

豊国は顔の上に国芳の消えいりそうな声が降って初めて、目を開いた。長らく会わずにいた師の病みついた目の玉には、目脂(めやに)だけでなく何か死に近い濁ったものが浮いている気がした。

豊国は乾いたくちびるを開いた。

「国芳、か」。

うん、と国芳は頷いた。

「ただいま、父っつぁん」

涙がぽつんと、こぼれ落ちた。

馬鹿野郎、と豊国はしわがれた声で言った。

「帰りが、遅すぎだ」

「うん」

「今度お前が来たら一言、言ってやろうと思ってた」

「うん」

末の弟子でありながら悪態をついて飛び出し、こうなるまで一度も師の事を顧みなかった。

罵られても、馬鹿にされても構わない。

ただずっとこうして、師と言葉を交わしたかった。

豊国は唇の隙間から風の漏れるように静かに笑って、震える手で懐から何かを取り出した。広げて見せたのは、昨年の月見で国芳が描いた「雪月花」の「月」の図であった。長い事懐に仕舞っていたのか、くしゃくしゃになっている。

歌川国芳「あふみや紋彦」国会図書館蔵

「おめえ、良い絵を描くようになったな・・・・・・」

国芳の目は大きく見開かれた。

「そりゃねえよ、父っつぁん・・・・・・」

国芳は、力の抜けるような声でフハッと笑った。

「国貞兄さんにいつも言うみてえに、ここが駄目だとかこの線が歪んでるとか、もっとなんか、言う事アねえのかよ。なんでわっちにはそれだけ・・・・・・ッ」

最後までは言えなかった。

照れ隠しに憎まれ口を叩いてみても、十四年のうちにようやく貰えたたった一つの褒め言葉が嬉しくて、後から後から涙がこぼれ落ちる。

豊国は再び目を閉じて、小さくクックッと喉の奥で笑った。痩せ衰えた物凄く寂しい顔のはずなのに、国芳には千日紅の花が陽なたに咲くような明るい笑顔に見えた。

「大体父っつぁんは、わっちの絵なんぞまともに見た事ねえじゃねえか」

「見てたさ・・・・・・」

豊国が滲むように笑った。

「おめえの絵は、いつもちゃんと見てた」

「分からねえよ、あんた、何も言わねえんだもの」

国芳は泣き笑うと、豊国は少し憤慨して、

「おめえらはほんに、どいつもこいつもどうしようもない大馬鹿野郎だから、言葉ばかりを欲しがる」

豊国はふうっと息を吐き、

「国貞」

ふいに、国貞を呼んだ。

「はい」

隠居の翁のように床の間の手入れに勤しんでいた国貞は、びくりと細腰を反らせて振り返った。

「花なんざ後にして、ここに座れ」

国貞が慌てて枕頭ににじり寄ると、豊国は恐らくもうほとんど見えてない目を開いた。

「国貞と、国芳。お前ら二人に話したいことがある」

豊国はそう言ってから、言葉を改めた。

「いや、話さなくてはならねえ事だ」

二人の弟子は、師を挟むように左右の枕頭に座り、膝の上でぎゅっと拳を握った。

「国貞は知っているだろうが、おめえらが入門するより昔から長え間、わっちの右腕は国政だった」

豊国は、突然今は亡き一番弟子の名を出した。

「あいつは言わずとも常にわっちを理解し、どんな時も傍にいた。見込んだ通りの売れっ子になって、一緒に合作もやった。だが、長くは続かなかった。あいつがわっちを超えると言われてしばらく経った頃、国政の成功に嫉妬した弟子の一人に、あいつの腕が潰された。無頼漢を雇って、国政の帰り道に襲わせたのさ」

「えっ」

国貞と国芳は、同時に呼吸を呑んだ。

「あいつも諦めずに、元の腕を取り戻そうと役者の面なんぞ作って訓練したが駄目だった。筆が荒れて子ども相手のお遊びの面を作って売るのが精一杯の腕になっちまった」

国直がいつかの夜に語った話の真相が、ようやく理解された。

国政の部屋に今も残された無数の面の数々。その面の数だけ国政は努力し苦しみもがいたのである。

(確か、国政の兄さんは鯛兄イに絵を描かなくなった理由を訊かれて、笑いながら『心変わりだ』と・・・・・・)

いつの時も温厚に笑っていたという国政が心奥に燃やしていた激情と執念を思うと、国芳は気が遠のく思いがした。

「わっちは責任を取るつもりで、国政にあの中庭の見える部屋を与えた。何もしなくていい、ただ一生ここにいろと。心根の優しすぎるあいつはわっちに気を遣い、言う通りに工房に残った。本当は逃げ出したい気持ちもあったろう。しかしあいつは何も言わなかった。言わない代わりに、面を作り続けた。それがあいつが通したかったただ一つの筋だったんだろう。わっちゃアそんな国政をそのまましたいようにさせた。憐れで仕方がなかったのだ。わっちを超す腕と称されながら、一夜のうちに全てを失った一番弟子が」

しかし、豊国は落ち込んでばかりもいられなかった。並行して問題が浮上したのである。国政に代わる歌川流の後継者を、一から育てなければならないという大きな問題であった。

豊国は焦った。

腕も確かで同門の後輩への面倒見も良い国政がいれば、歌川流は安泰だとある意味胡座をかいていたものが、突然頼みの柱を無くしてしまったのである。慌てて二番弟子の国重を養子にしたり、他の弟子への指導をいきなり厳しくしたりとその動揺は相当のものであった。

そんな時目に止まったのが、

「国貞、おめえだ」。

国貞は、初めから利発で華やかな匂いを持っていた。絵の才覚の匂いであった。加えて生真面目な性格と、絵にかける熱情、向上のために努力を惜しまない負けん気の強さが全て揃っていた。これは大物になるかもしれない。豊国は決めた。

「こいつを、豊国にしよう、と」。

その日から豊国は、国貞を誰よりも一番厳しく指南した。自分の分身を作る心算で、一切妥協をせず全身全霊で絵を教えた。国貞の筆はみるみる磨かれ、ますます粋に、ますます洒脱に、江戸の誰もが憧れるような役者絵を描くようになった。しかしその筆の精彩が増す傍らで、国貞の表情はどんどん厳しくなり感情を己の中で殺すようになったのにも豊国は気が付いていた。

「申し訳なかった。二十歳そこそこの遊び盛りにおめえから自由を奪い、吉原(なか)に行くにも全て仕事の関係でしか行かせなかった」

その頃から、豊国は弟子たちの前で豪語するようになった。

「歌川にあらずば絵師にあらず。他の絵描きは曲芸でしかない。人に好まれる理想の絵の描けない者に、価値などない」

と。

いつまで経っても売れない弟子たちには、容赦なく「おめえらの努力が足りねえからだ」と叩き付けた。国貞の少し後に入った国丸や国安にも、まだほんの子どもだという時分に指から血が出るほど描かせた。

「今でこそ奴らアあんな風に笑っているが、あの頃は二人とも泣きながら死にものぐるいで付いてきていたよ。むごい事をした。わっちは、本当に出来すぎた弟子たちに恵まれた。特に、国貞。おめえにゃ他たア比較にならねえほど酷な教え方をしたが、お前は顔色一つ変えずに何度も何度も描き続け、世の希求に柔軟に応えられる歌川派の絵師の鑑となった。いつのまにか、かつての国政のようにわっちにとって頼もしい存在になってくれた」

しかし、と豊国は皺の深い手で顔を覆った。

その陰には、わっちの理不尽なまでの厳しさについてゆけなくなった者たちが確かにいたのだ、と。

「些細な理由で芽が出ず自分でも焦っているところに、わっちが戯言を喚いたばかりに行き場を失くして落ちこぼれてしまった者たちが・・・・・・」

豊国がその事に気が付いたのは、当時一番末っ子の弟子だった国直が十七歳で売れた時だった。若い国直が突然豆が弾けたように一気に売れはじめると、国直は一門の何者によって目を潰されかけた。間違いなく豊国が置き去りにした多くの弟子たちの中の誰かの所業であった。幸い無事に済んだが、一歩間違えれば国政と同じ大惨事になっていた。

(そういう事だったのか)

国芳は慕っている国直の怪我の真相を知り、蒼白になった。

豊国はその事を聞き及び、呵責の念にさいなまれたという。

「深く沈みこんだ時、わっちが初めて歩みを止めて振り返るとそこに、国政がいた。・・・・・・」

輝かしい人気絵師の道から一人外れ、豊国が憐れみで与えた狭い部屋で哀しく役者の面を作っていたはずの国政が。豊国自身、置き去りにしてきてしまった事を心のどこかで重荷に思っていたあの国政が。

「国政は、役者絵の名手として世間から称賛を浴びていた時よりよっぽど生き生きと楽しそうに、魂のこもった張り子の面を生み出しては売り歩き、たくさんの子どもやその親たちを笑顔にしていた。あいつはわっちを見て言った。『父っつぁん、そろそろその鬼のお面を外してはどうですか』と。」

豊国は胸を衝かれた。わっちはいったい、何を守ろうとしていたのだろう、と。

「流派てなア、鵺(ぬえ)みてえなもんだ。癖も得手不得手も何もかもが違う、人の技の集合だ。わっちは歌川流を守ろうとするあまり、生身の弟子の筆から目を背け、個性を殺し、大衆に好まれるような絵を描かせた。だが、それが全てじゃアなかった」

国政の張り子の面のように、様々な個性で結果として人を喜ばせる絵を描く。それもまた一つの「歌川流」のかたちなのだと、豊国は国政によって気付かされたのである。

「ただ、わっちゃア気が付くのが遅すぎた。精力的に新しい弟子を取るには、いささか歳を取り過ぎていた。そして気付きもしなかったが、国政はその頃すでに病にかかっていた。ようやく目の覚めたわっちは、己の愚かさに苦悩した。そんな時、国政が珍しくわっちにある話を持ちかけた」

国政は言った。

先生に紹介したい子どもがいる、と。

聞けば、国政が豊国の門下に入る以前に働いていた紺屋の倅だという。付いていくと、

「その紺屋の倅てえなア、国芳、まだほんの子どものおめえだった」。

古ぼけた貧乏くさい紺屋の壁に似つかわしくないほど活き活きとした鍾馗の絵が、壁に無造作に飾られていた。

技もねえ。

美しさも、ねえ。

だがわっちは、

「宝物を見つけたと思った」。

画像 筆者 鍾馗図は歌川国芳作 Wikipediaより

深く傷ついた豊国には、その絵とその絵を描く腕を持つ少年が宝物のように思えた。

どうしても、その子どもだけは手元に置いておきたいと思った。

「国芳。おめえは、わっちの最後の夢だ」

実際に顔を合わせてみりゃロクでもねえ生意気なガキだったが、おめえを最後の弟子にする事はその時に既に決めていたと、豊国は目を閉じたまま言った。

「芳にだけは、今まで国貞や他の弟子たちにしてやれなかった事、見せてやれなかったもの、そういうものをたくさん教えてやろうと思った。まあ結局、ロクに構ってやれなかったがな」

「父っつぁん、覚えてっか。一度だけ、品川に鯨ア見に行った時の事」

「ああ、覚えてらア。おめえに見せたくって首根っこ掴んで引っ張り出したっけ」

「わっちゃア、あん時父っつぁんに一生分構ってもらったんだ。嬉しかった」

そうか、そうだったかと、豊国は微笑(わら)った。

「国芳」、

国芳は、慌てて豊国の右手を取った。肉が削げ、皮膚が余って皺だらけになったその手を今すぐ取らないと、豊国がどこかに行ってしまいそうな気がした。

「決して、傍観者になるな」

「ボウカンシャ?」

「傍らで見ているだけの人間の事だ。おめえはこの国貞を傍観するだけの人間になるな。お前も一緒に歌川派っつうでっけえ鵺(ぬえ)の手足になって、歌川の看板を背負え。身体全部で、時代と世の流れを捉えろ。そしてこの国貞や他の奴らを支えてやってくれ」

「うん。自信ねえけど、やってみるよ」

国芳の強い眼光を見届け、豊国は優しく頷いた。

「国貞」

国貞は迷子の子どものような表情で、豊国の手に縋った。

「今まで辛い思いをさせて悪かったな。もうおめえを縛るもんは何もねえ。おめえは、新しい時代の豊国になれ。わっちのなれなかった豊国に。笑いたい時には笑い、怒りたい時には怒り、泣きたい時には泣いて心のままに生きる、そういう粋な豊国に・・・・・・」

国貞は国芳の知る限り初めて、泣いた。その子どものような素直な泣き方を、国芳は意外に思った。

豊国は溜め息を吐くように、言った。

「ほんに、おめえらが弟子で、幸せ・・・」

つむった目尻から、つうと涙が一條流れて落ちた。

国芳が握る右手は、かつて幾千の作品を生み出した奇跡の天才絵師の右手であった。国貞が縋る左手は、かつて何人もの弟子達の頭を何度も撫ぜた、優しい父親の左手であった。

「おめえらは、わっちの大切な」。・・・・・・

大切な、何だったのかは二人には聞き取れなかった。

ただ、底抜けに明るく笑った豊国の顔が、国芳と国貞の頭から永遠に離れない記憶となった。

文政八年一月八日晩、二人の師であり父親であった豊国が息を引き取った。

国芳は、豊国と見た大きな背美鯨が忘れられずに、随分経ってからあの鯨を描いた。三枚摺の、大作であった。

歌川国芳「宮本武蔵の鯨退治」

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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