【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第24話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第24話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第23話

■文政八年 梅雨

吉原遊廓にも、梅雨が訪れた。

仲之町の花菖蒲の花弁を濡らす露さえも、娑婆のそれとは違ってしっとりつやめいている。

渓斎英泉「江戸八景 吉原の夜雨」国会図書館蔵

京町一丁目岡本屋の紫野花魁は、最近いつも針仕事をしている。

何を縫っているのかは分からない。一階の針子部屋から刺繍台を借りる姿を見た者がいるから、おそらく刺繍に執心しているのだろう。

去年までは陽の明るいうちは蒲団にこもって寝ている事が多かったのに、最近の紫野は何か別人のように活動的である。

その紫野花魁に、若い衆の直吉はとある頼まれ事をしていた。

吉原遊廓を出て、娑婆(しゃば)の貸本屋で本を借りてきてほしいという頼みであった。

「傾城水滸伝」という合巻だ。

今年の早春に日本橋通油町の有力地本問屋である鶴屋が初編四冊を出版して以来、「傾城水滸伝」は江戸で爆発的な人気を誇っている。書いたのは人気戯作者曲亭馬琴、挿絵は浮世絵界の大御所、歌川豊国である。

江戸を代表する二人の合作だから売れて当たり前だが、その売れ行きは地本問屋の想像をはるかに凌駕した。初版は数千部が瞬く間に売り切れ、その後版木が二度も摩耗して、三板まで彫り直したという。

寛政期に伝説的な売れ行きを記録した恋川春町の「鸚鵡返文武二道」ですら、こう飛ぶようには売れなかったであろう。もとは一部の識者のものでしかなかった本というものが寛政以来、蔦屋重三郎をはじめ多くの地本問屋や絵草子屋の努力によって庶民にぐっと身近なものになった。今や、籠の鳥の女郎たちまでもが読本を手に腹を抱えて笑う時代である。

国貞「今様見立士農工商之内商人」国会図書館蔵

しかし、娑婆の本屋で容易に手に入らないものが、おはぐろどぶに囲われた吉原の廓内(なか)の本屋で手に入る筈がない。「傾城水滸伝」は半年待っても廓内には入荷しなかったため、いよいよ外の貸本屋まで直吉は走ったのである。

「もしえ花魁。紫野花魁!」

「あいな、お入り」

直吉は、すっと襖を開けて紫野花魁の部屋に入った。座敷とは別に八畳もあるこの部屋は、この岡本屋で一番格の高い看板花魁の象徴である。紫野はその部屋の中央でやはり針を持ち、拡大眼鏡をかけて手ぬぐいらしき布に刺繍をしていた。傍ではぶち猫がつまらなさそうにその作業を眺めている。

行燈(あんどん)もつけずにひどく暗い部屋の中で、紫野が顔を上げて微笑んだ。

「ああ、ちゃんと借りてきてくれたね」

「へえ、外は泥濘(どろ)だらけでとんでもねえですよ。花魁ア出られたもんじゃあねえや」

直吉が膝でにじり寄ると、紫野は台を背後に押しやって刺繍が見えないように隠した。

「なんでえ、使いっ走りのお駄賃にそれ、見せてくだせえよ」

「駄目よ」

猫が男を不愛想に一瞥し、するりと紫野の傍をすり抜けてどこかへ出て行った。

「チェッ」

直吉は仕方なく頼まれていた本を懐から出して、紫野に手渡した。黄表紙を何巻か集めて綴じたその表紙には美しい女が描かれていて、端に「傾城水滸伝」とある。紫野はほっそりした指でそれを受け取り一言、

「温かいね」。

「懐で温めておきやしたから」

「そういえば秀吉公は、主の草鞋を懐で温めたんだっけ」

「俺が猿だって言いてえんですかい」

「違うよ。直坊、いつもありがとう」

皮肉っぽい直吉の口ぶりにも、紫野花魁は優しい言葉で素直に返してくれる。

何だかむず痒くなった直吉は頬を掻いて、

「そりゃあ、俺アね」、

と半分照れながら言った。

「花魁の言う事ア、何でも聞きますよ。直吉の直は、素直の直ですから」

「頼もしいね」

へへ、と直吉は笑って鼻をこすった。

「あたしが読んだら、直坊にも貸してあげるよ。これ」

「ありがとうごぜえやす、花魁」

紫野は、直吉の事を直坊と呼ぶ。確かに出会った時直吉はまだ八つ、細くてちっぽけな子どもだった。火事で家も二親も失い、食うにも寝るにも困った。身一つで浅草の口入屋に飛び込み、何でもしますと拝み倒してようやく拾ってもらえたのがこの吉原の岡本屋であった。

その頃の紫野といえば、ちょうど引っ込み禿(かむろ)から引っ込み新造になったばかりで、見世の奥で宝玉のように大切にされていた。今でこそ外出も許されているが、当時はそれも禁止されており、他の女郎たちとは全く別格扱いであった。

今や紫野は見世の看板花魁、直吉も十八の立派な青年である。

「花魁、その直坊ってえ呼び方は、ちょいと頂けねえよ」

直吉は口を尖らせた。

「なんで」

「なんでって、十年前は直坊で良かったけど、今ア子どもっぽくてさあ」

「いいじゃない。そう呼ぶと、あたしが直坊と仲良くなった時の事をいつも思い出すの」

紫野が、遠くを見やって笑み笑みした。

「仲良くなった時・・・・・・」

直吉には、忘れがたい記憶がある。

それは十年前、八つの直吉が岡本屋の丁稚として雇われて少し経った頃の事であった。

丁稚の一日は、雑巾掛けに始まり、雑巾掛けに終わる。ある時、直吉はいつものごとく襷をばってんに掛け、雑巾を手に廊下の隅から隅までピカピカに磨いていた。

半刻もそうしていると凝り性の直吉は段々と夢中になり、気が付けば絶対に行ってはいけないと言われていた奥の間の前まで来てしまった。咄嗟に、遣り手の怖い顔と一番初めに言われた言葉が脳裏に蘇る。

あの奥にいる子は、おめえが話しかけていいような人間じゃあないよ。将来は呼び出しつまりこの見世一番の花魁になる子だからね、絶対に近寄ってはいけないよ。・・・・・・

(いけねえ、遣り手に叱られらア)

少年が慌ててその場を離れようとした、その瞬間であった。

障子のほんの僅かに開いた隙間から、柳の枝のような白い細い手がすっと差し出されたのである。

(あっ)

それはまるで、幻のような美しい手であった。

死んだおっ母ちゃんのあかぎれだらけの黒ずんだ手しか知らなかった直吉には、一生触れる事のない天女の手、はたまた天に咲く白い花のように思われた。

直吉がじっとそれを凝視したまま動けずにいると、あろう事か、その手がゆっくりたおやかに動いて、おいでおいでをした。

直吉は慌てて振り返って背後を確認したが、誰も居ない。

このおいでおいではその瞬間、確かに直吉だけのものであった。

(俺ア、天に召されッちまったのだろうか)

少年は、ふわふわと浮遊するような不思議な気持ちになって、一歩一歩その手に吸い寄せられた。ついにその手の眼の前に辿り着き、直吉が恐る恐るそのほっそりした指に触れる。すると、

「うわっ!」

その手に思い切り腕を掴まれ、痩せた小枝のような少年の身体は、一気にその部屋に引き摺り込まれた。畳の上に転がされ、恐怖でギュッと目を瞑った時、

「捕まえたっ!」

女の子の興奮して上ずった声が、上から降ってきた。

直吉が恐る恐る目を開けて、一番初めに視界に飛び込んできた紫野の笑顔は、今でも鮮烈に頭に残っている。顔をくしゃくしゃにして笑うその顔が余りに眩しくて、初めて見るその薄墨の瞳が余りにきらめいていて、直吉は確かもう一度目を瞑った。

・・・・・・

「あの頃から、花魁は何にも変わっていねえよなあ」

十八の直吉が腕組みをして眩しそうに目を細めた。

「直坊は、変わったね。あの時吹けば飛びそうなくらい小っちゃくて、可愛かったのに」

「そりゃどうも。お陰様で、今アこんなに大きくなりました」

人並み以上に背丈の伸びた直吉は、今は紫野の花魁道中で肩を貸す男衆を務めている。

口もとを隠してくすくす笑う紫野に、直吉はあっかんべをした。

「あの頃から、直坊がせっせとこうしてお使いに行ってくれて、お陰で随分楽しい思いが出来たよ」

「最初に俺を部屋に引っ張り込んだあの時、花魁何て言いましたっけ?『あたしとお友達になって』?」

ははっ、と直吉は可笑しそうに八重歯を覗かせて笑った。

「そんな事だったろうね」、

紫野は神妙に頷く。

「だって、日がな一日あの奥の部屋に閉じこもって、勉強に楽器に花に香にお茶・・・・・・。それも、嫁ぐためならまだしも、男に身を売るためによ。あたし、あのまま直坊に出会わなかったら、本当に気がおかしくなっていたと思う」。

「てこたア、俺が花魁を救ったんですね」

「うん。命の恩人だよ」

二人は顔を合わせて笑った。

あの鮮烈な出会いの日以来、直吉は遣り手や楼主、他の若い衆の目を盗んでは、紫野の部屋に忍び込み、話し相手になった。そして、引っ込み新造になった紫野を知れば知るほど可哀想に思った。

好奇心の強い利発な娘を部屋の奥に閉じ込める事ほど、不幸な事はない。可哀想だと思うにつけ、直吉はこの紫野に何かしてやれる事はないかと考えるようになった。菓子に絵本、色紙遊び、路傍に生えた鬼灯の実で笛の作り方を教えたりと、実に様々なものを外から運びこんだ。

紫野の奏でる世にも美しい琴や三味線の音色に合わせて鬼灯の実の笛をぷうぷう鳴らして、二人で腹を抱えて笑った事もあった。毎年正月になると、紫野がこっそり外に出るのを手伝いもした。

拾ってきたぶち猫を、こっそり紫野に与えた事もあった。ちなみにこの猫は今も紫野の傍にいる猫である。そして数年前、紫野にとって最大の影響力となる本との出会いをもたらしたのも、この直吉であった。

・・・・・・

「新造」、

と当時直吉は紫野の事をそう呼んでいた。

「これ、俺が一番好きな本」。

部屋の中で一緒にいても、つまらないつまらないとぼやいてばかりの紫野に直吉が手渡したのは、先述の曲亭馬琴の読本「新編水滸画伝」だった。「傾城水滸伝」の先駆けとなった作である。

基礎は唐国の小説「水滸伝」だが、馬琴が江戸の庶民にも分かりやすく丁寧な補足訂正を行い、更に当時読本挿絵で評判だった葛飾北斎が挿絵を描いた。明快な文章に細やかで工夫の凝った挿絵付きとなれば、面白くないはずがない。

「女が読んで面白いものじゃアねえとは思うが、新造は人よりちょいと変わっているからね、ひょっとするってえと、日頃の憂さ晴らしになるかもしれねえ。つまらなければ、またすぐ別を用意するよ」

「ありがとう」

この時直吉は、紫野がまさか自分より深く水滸伝の世界に魅了されてしまうとは思いもしなかった。次に紫野に会った時、紫野は既に「新編水滸画伝」の初編を読了していた。

紫野が枕に肘を付き、はあ、と深い溜息を付いたので、

「やっぱりつまらなかったでしょう、新造」

直吉が訊くと、

「史進って、格好良いよねえ」

予想とまるで反対の答えが返ってきて、直吉はひっくり返りそうになった。

「新造、もしかして」、

「直吉、あたし、史進に惚れちゃった」。

紫野が薄墨の瞳に滴りそうな憂いを湛え、婀娜っぽい表情でそう言うので、直吉は全く笑い事ではなくなった。

「新造!?でも史進はよ、現実には居ない訳で、いや、仮に唐国には居たとしても、この江戸にゃア絶対居ねえ訳で!」

「そんな事、分かってるよ」

紫野はくすっと少し悲しげに笑った。その表情を見た時、アア何で俺アこんなにムキになっているんだろう、と直吉は思った。

紫野が小説の中の男に憧れるのは、現実の世界では年相応の相手と恋する事も許されず、真っ当な相手に嫁ぐ事も叶わない自分の運命を分かりきっているからではないか。

(そうですか、と笑って聞いてやれば良いものを、俺は何故こんなにムキになって言い返しているんだ)

その時突然、直吉の目には鳥瞰図のように自分の姿が俯瞰して見えた。

(ああそうだ)、

きっと、俺ア初めてこの女に出会った時からずっと、この女にそんな風に想われたいと思っていた。・・・・・・

・・・・・・

「直坊」、

嫌だと言ったのに、またそんな風に紫野が直吉を呼んだ。

「この『傾城水滸伝』は、歌川豊国という人が挿絵を描いているんだよ」

新編水滸画伝が世に出た後、曲亭馬琴と葛飾北斎は大喧嘩し、絶交した。だから今回の挿絵は、歌川の大御所に白羽の矢が立ったのだ。

「ええ、もちろん知ってますよ」

直吉は絵師にはさほど造詣がなかったが、歌川豊国の名前くらいは廓内(なか)の子どもでも知っている。何故そんなことを改めて花魁が言うのか、分からなかった。

「今年の一月に、死んじゃったんだ」。

「それあ、悲しいですね」

「うん。だからもう、この『傾城水滸伝』は豊国の挿絵じゃなくなるんだって。次からは豊国の弟子の、国安って人が挿絵なんだってさ」

「よくご存知で」

「・・・・・・」

紫野は答えなかった。

答えずに、俯いて頬を染めている。

直吉は知っている。

紫野に、浮世絵師の間夫(まぶ)ができた事を。

紫野はたまに「紫野花魁」から「みつ」という一人の女に戻って、その男に逢いに裏茶屋へゆく。豊国の話もそこで聞いたのだろう。

直吉は、間夫ではない。

ただの、女郎屋の奉公人だ。

どうしたって、紫野の隣に並ぶことは出来ない。例え女の絹のような肌の上をぽろぽろと真珠の粒がこぼれ落ちても、その濡れた頬に触れる事はおろか、床にこぼれたその涙を拾い集める事すらも許されない。

きっとそれは死ぬまで変わらない事実なのだろう。

だとしたら、直吉に出来る事はただ一つだった。

「次の二編が出たら、今度アすぐに外に買いに走りまさア。花魁のお望みなら、何だって聞きやす。直吉の直は、素直の直なんですから」・・・・・・

それを聞いた花魁が、少し湿った睫毛を上げて、何も言わずにただくしゃっと小さな顔いっぱいに笑った。

その笑顔があんまり眩しくて、直吉はいつかのように、思わず目を瞑った。

曲亭馬琴作・歌川国安画「傾城水滸伝 第二編」

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