15歳にして「悪(にく)らしいほど強い武士!」となった鎌倉悪源太こと源義平の武勇伝(上) (2/4ページ)
鎌倉時代
当時、父・義朝は鎌倉を中心に相模国(現:神奈川県)一帯で勢力をのばしていましたが、自身は朝廷への出仕で京都にいることが多く、その留守は義平があずかっていました。
同じころ、義朝の弟で義平の叔父に当たる帯刀先生(たてわきせんじょう)こと源義賢(よしかた)が、北関東に勢力を築くため武蔵国(現:東京都&埼玉県)に進出。
地元の豪族・秩父(ちちぶ)氏と誼を結んで力を蓄え、虎視眈々と南下すなわち相模国への侵攻をもくろんでいました。
……と聞いて、中には「え?何で甥っ子のいる兄の領地を狙うの?」と思う方もいるかも知れません。
実はこの義賢、義朝の父で義平の祖父に当たる源為義(ためよし)が差し向けた、いわば刺客。
義朝と為義は親子だけど仲が悪く、京都で繰り広げていた勢力争いが関東にまで波及してきたのでした。
「鎌倉を守っているのは、まだ元服(成人)して間もない小僧っ子の義平。やっちまうなら今がチャンスだぜ!」
……と思ったかどうだか、そんな動きはとっくにお見通しの義平は、京都にいる父と連携しながら、武蔵国司をはじめ、武蔵国内に割拠する豪族たちに根回しを始めます。
叔父の義賢はともかく、秩父氏は武蔵国で強い影響力を持っているため、真っ向から敵に回したら何かと厄介です。
そこで、既に義賢に懐柔されてしまった者は仕方がないとしても、まだ息のかかっていない者たちに中立を保つよう、つまり「今度の喧嘩、手出し無用でよろしく」と頼んだのです。
かくして根回しもすんで準備万端、義平は少数精鋭で武蔵国・大蔵(おおくら。現:埼玉県比企郡嵐山町)にある義賢の館へ奇襲をかけます。
