跡形遺さない災害による死。そのような死を形に留めておく慰霊碑という存在

心に残る家族葬

跡形遺さない災害による死。そのような死を形に留めておく慰霊碑という存在

埼玉県南西部に属し、東部は川越市・鶴ヶ島市、西〜南部は飯能市、北は坂戸市・毛呂山町と接する日高市の台(だい)134番地には、水天(すいてん)の碑と呼ばれる石造物がある。
碑は縦137cm、横97cm、幅45cmで、正面に大きく「水天」の大きな文字が刻まれている。立てられたのは天保15(1844)年で、正面の台座に「惣村中」とあることから、当時の台村の人々が立てたものであることがわかる。碑のそばの看板によると、天保年間(1830〜1844)に繰り返された旱魃、大洪水などの天災や水難事故を鎮めるために立てられ、建立の際には、五日五夜の大念仏の行事が催されたという。

■日高市にある「水天の碑」の「水天」とは水の守護神


碑に記された「水天」とは、もともとサンスクリット語で「ヴァルナ」を指す。ヴァルナは古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』(紀元前12世紀頃完成)に登場する代表的なアスラ(阿修羅)のことで、聖典成立以前から信仰されていたという。

天空の神で、宇宙運行の秩序であるリタ(天則)を司り、リタに背く者を捕らえ、病にかからせる。ヒンドゥー教においては水の神となり、世界守護神の一神として、西方の守護神となった。仏教に習合してからは、仏教の守護神・十二天(じゅうにてん)の一神となった。

「水天」の「水」が表すように、水の守護神である。また、仏像・仏画の水天は、五龍冠を頂いて亀に乗り、海中に座し、左手に羂索(けんさく。五色の布を撚り合せた罠)、右手に剣を持った形で表現されている。

■天保の飢饉やその後も続いた水難事故によって建立された水天の碑


天保年間といえば、江戸時代を代表する飢饉のひとつ、天保の飢饉が起こったことで知られている。天保4(1833)年と6〜7(1835〜36)年の大凶作を頂点として7年にも及び、全国規模で発生した冷害型の不作であった。飢饉による餓死・疫病死に加え、農民たちが自らの土地を捨て去り、諸国に流亡(りゅうぼう)してしまうほどの惨状を呈したという。江戸時代の飢饉といえば、天明の飢饉(1782〜1788)も同様の状況だったが、天保の飢饉の際は、窮状が長期化・蔓延化してしまってはいたが、過去の反省から、幕府や藩による種々の救荒(きゅうこう)対策が取られ、ある一定の効果を得ていたという。例えば、飢饉が始まると、幕府や藩は御救(おすくい)小屋をつくり、施粥(せがゆ)や施金(せきん)を行った。また、商人や豪農の出資を求めて褒賞を与え、各種の御救普請(ふしん。土木工事)を行わせたりもした。更に年貢の減免や金の貸付、囲米(かこいまい。備蓄米のこと)を放出することなどだ。しかしそれでも、農村部には貧農・小作人や耕作地を失った奉公人・日雇層の数は増加した。更に商業地においても、多くの窮民があふれていたという。そうしたことから農村での一揆、富裕層の村役人・米穀商・質屋などに対する打ちこわしや騒動が全国各地で頻発した。天保8(1837)年、大坂(現・大阪市)の与力による大塩平八郎の乱は、こうした状況を象徴する大事件だった。

これらの惨状を受け、幕府は人事・綱紀・経済状況を刷新する天保の改革を行う。それと連動する形で、二宮尊徳(1787〜1856)などの経世家・農政家が提唱した報徳思想の顕彰、救荒書出版などを推奨した。

■水天の碑が建てられた地域の歴史

「水天の碑」がある台村を含む当時の武蔵國高麗(こま)郡高麗郷はもともと、霊亀2(716)年に朝廷によって、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の7ヶ国の高麗人1799人を武蔵國に移して、高麗郡が置かれたとされ、朝鮮半島からの渡来人が多く住んだ地域だった。このような高麗郷は江戸時代には、25ヶ村(後に36村)に分かれていた。これらの村は天領や旗本領となり、天領は関東郡代や代官が分割支配し、大きな旗本は陣屋を所領地内に置いていた。飢饉当時の台村では、囲米は食糧用のものではなく、翌年の農作業に必要な種籾しかなく、麦や雑穀も不足してしまっていた。そのため、垣根や笹薮に生えるトコロ(野老)という野草の根を干して細かくしたものを食べ、それが掘り尽くされてしまうほどだったという。また、返済の必要がある、いくばくかの「飢人手当」が村役人から村人たちに貸し付けられた証文も残っている。

■東日本大震災ではどのような弔いがなされたか

多くの人々が犠牲となった巨大な自然災害といえば、2011(平成23)年3月11日午後2時46分に起こった、東日本大震災が思い起こされる。短期間での大量死が生じてしまった震災直後は、残された遺族のみならず、地域社会においても、火葬場の稼働能力を超えていたことから、通常時の死者への対応と同レベルの葬送儀礼は到底叶わなかった。例えば宮城県においては、家ごとの墓域に埋葬するのではなく、一次的に私有地・町有地などに集団仮埋葬を余儀なくされた。しかし、早いところでは6月初旬、最も遅くとも11月19日までには全ての遺骨が掘り出され、改めて荼毘に付されたという。その後、大体1年ぐらいを経て、人々の気持ちや周囲の状況が落ち着いてくると、亡くなった人の霊魂の救済のため、葬儀や新盆などの個人レベルでの儀礼、そして集団レベルでの追悼儀礼が行われるようになった。更に石碑などを建立し、震災で亡くなった人々の「死」を形にとどめて悼むことが、始められるようになったという。

■東日本大震災の被災者は慰霊碑を建てたいと話した

宗教民俗学者の鈴木岩弓が被災地のひとりであるおばあさんから以下のように聞き取ったという。

「ここでは皆が身近な人をなくしているので、これまで誰も泣くことすらしないできた。でも、震災から2年半が過ぎ、この頃やっと泣けるようになってきた。そうした時、津波で流されて何も残っていないので、死者との間をつなぐ何かが欲しいと思うようになってきた。自分はそれが慰霊碑だと思う。だから何とか頑張って、この地に慰霊碑を作りたい。」

この言葉に象徴されるように、震災であらゆるものを失ってしまった人々にとっては、石碑・慰霊碑・石像などが亡くなった家族の「依代(よりしろ)」となり、宗教学者の西村明が言うように、「どうして彼(彼女)は死んだ(あるいは死ななければならなかった)のか?」という死の意義づけ」、または「その死の現実を納得し受け入れるための説明」となる。更に生き残った人々にとっては、「同じような犠牲が出ないように、(場合によっては自然との戦いとして)防災の技術や姿勢を高めていく」ものとなるのだ。

■2018年は地震、豪雨、猛暑、台風と災害の多い年

2018(平成30)年は、例年になく、自然災害の多い年だ。4月9日の島根県西部地震、6月18日の大阪府北部地震、西日本を中心とした6月28日〜7月8日の集中豪雨、40度越えが何日も続いた夏の猛暑、7月20日の台風12号、8月1日の台風13号、同月8日の台風15号、同月22日の台風20号、9月3日の台風21号、同月6日の北海道胆振東部地震、そして同月29日の台風24号など、例年にない自然界の猛威に、我々はなすすべもなく呆然と立ち尽くしてしまっている状況だ。

日高市の「水天の碑」は、立て札の記載通り、「今では忘れられた存在」となっている。しかしかつては、東日本大震災の後に多く立てられた石碑や慰霊碑同様に、亡くなった人々と残された人々をつなぐ「依代」、そして天災は防ぎようがないが、それを最小限にとどめるための「警告」、または「無事」が当たり前のものだと思って、日々漫然と過ごしがちな人々に対する「戒め」、そして、「無駄死にはするな!」と亡くなった人々からの「訴え」を表してきたはずだ。静かに佇む「水天の碑」には、今ある自分の命への感謝と共に、多くの学ぶべきことがある。

■参考文献

■加藤喜代次郎・新井清寿(編)『高麗郷土史』1974年 日高市教育委員会
■中村元(編)『図説佛教語大辞典』1988年 東京書籍
■難波信雄「天保の飢饉」下中弘(編)『日本史大辞典 4』1993年(1257−1258頁) 平凡社
■日高市史編集委員会・日高市教育委員会(編)『日高市史 近世資料編』1996年 埼玉県日高市
■田代脩・塩野博・重田正夫・森田武(編)『埼玉県の歴史』1999年 山川出版社
■日高市史編集委員会・日高市教育委員会(編)『日高市史 通史編』2000年 埼玉県日高市

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