【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第25話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第25話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第24話

◾文政八年 初夏

まっさらな紙の上を、漆黒の筆先が滑る。

緩やかな曲線、かと思えば突然、かっと威勢のいい角が現れたりする。

筆遣いには迷いも曇りもない。

男の腕は躍動する。

心のまま、紙の中に墨染の生命を注ぎ込む。

最後に黒目を描き入れると、一個の生命が誕生した。ぺろりと舌舐めずりしたところで集中が途切れて、

「それにしても・・・」、

はた、と男は我に帰った。

「仕事が来ねえ」。

浮世絵師・歌川国芳に、今年も冴えない夏が来た。

親友の佐吉が見ている傍で、国芳はついに筆を放り出し、袖枕でゴロリと寝転んだ。いつもその場所に寝そべるものだから、もうそろそろその場所に国芳の人型の跡が付いてもおかしくないと佐吉は思っている。

国芳のそんな態度とは裏腹に、机上に広げたままの素描帳には描き散らされた禍々しい鰐やら巨大な鯉の化け物やらが、今にも襲いかかりそうに躍動している。

佐吉はそれを覗き込んでニコリと笑った。

「芳さん、最近また、絵が変わったな」

「そうか?」

「前より、随分鮮やかになった」

「ただの墨描きだぜ」

と国芳は怖い顔で毒づく。彼なりの照れ隠しである。

「だから、線画が鮮やかになった。力強いっていうか、迷いがないっていうか」

「そうかよ」

「それにさ、なんだか」、

佐吉は腕組みして言った。

「生きてるみてえだ」。

「あ?」

「前は上手くてもムッと呼吸を詰めてる絵ばかりだったが、最近の芳さんの絵は、人も生き物も花も波も、皆息衝いてやがる。今に紙から飛び出てどっかに行っちまいそうだ」

「ほんに、一銭にもならずに描いたそばから全員どっか行っちまいやがらア」

国芳は佐吉の誉め言葉をすぐに茶化した。

「ねえ、真面目に褒めてるんだぜ。芳さんの腕アどんどん進化してるんだから、きっと今に売れっ子になるさ。ホラ、描くのに飽きたんなら今のうちからこの紙に花押を書くか、手形でも押してよ。有名になったら一気に売り出すからさ」

現金なこの青年はどこからか大量の半紙を出してきて、寝転がる国芳の顔の前にどさりと置いた。

「こんべらばアが、よしゃがれ手形なんざア。相撲取りじゃあるめえし」

ウウンと足を延ばした時、ガタッと足が机にぶつかり、机に積み上げてあった本やら帳面やらがバサバサと国芳の上に崩れ落ちてきた。

「痛ててて!」

国芳は突然足に降りかかった痛みに咆哮し飛び起きた。降ってきた本どもは、少しずつ貯めた金で方々探し回ってようやく手に入れた蘭書や唐本や絵手本である。止まることのない国芳の学びの姿勢には佐吉も舌を巻いていた。まず「解体新書」という蘭方の医学書を手に入れ、人体の構造を骨格から改めて学びなおし始めた。

解体新書 Wikipediaより

人物描写の向上のためである。その他にも銅板画の蘭書、唐本、葛飾北斎の絵手本など、少しでも金が入るたびに次々に手に入れ、前年の十五夜の月見に描いた「雪月花」の「月」よりもなお面白い絵を生み出すために、ひたすら暗中模索している。

歌川国芳「あふみや紋彦」国会図書館蔵

しかし、

「付いてねえ」。

崩れた本の山を再び積み上げながら、国芳はそうぼやく。ここにきてとうとう天から見放されたかと思うほど、仕事がなかった。

最後の本を積み上げようとした時、ひらりと一通、手紙が落ちた。

拾い上げると、穴が開くほど読み返した豊国の遺言であった。

葬式の後、兄弟子の国貞から渡されたのである。文面はいたって短い。

「色んな版元におめえの事を頼んでおいたから、時期に仕事が来るはずだ。それまでは焦らず真面目に精進せよ」という内容である。

期待に胸を膨らませて半年、膨らんだ胸もしぼみ切るほど、まったく仕事の気配すらない。チクショウ、父っつぁんも大した事ねえな、と段々豊国にまで腹が立ってきた。

「アー!もうやってらんねえ!」

「どうしたの、芳さん」

ビリリと手紙を破く音がして、佐吉は愕いて国芳を見上げた。当の国芳は既に飛び起きて褞袍に三尺帯をキュッと締め直し、

「ちょいと今から青盛堂に仕事くれって頼んで来る!」

言うが早いか、画稿数枚を引っ提げて佐吉の家を飛び出した。

向かうは一番近所の地本問屋、両国米沢町の加賀屋吉兵衛が営む青盛堂である。

地本問屋や絵草紙屋の軒先というのは、春は花、秋は紅葉で飾ったように年中美しい錦絵が吊されており、通りかかる子どもが思わず足を止めてとろんと見とれるほどに華やかなものだ。

歌川国貞「今様見立士農工商之内商人」国会図書館蔵

「ごめんくだせえやし、旦那ア、旦那ア!」

国芳は青盛堂の屋標を染め抜いた大のれんを横目に土間に踏み込み、奥に向かって声を掛けた。売り子が慌てて、

「ヘエ、そんなに叫ばなくとも今旦那ア呼んで来やすからちょいとお待ちくだせえ」

売り子が奥に引っ込むと、入れ替わりで主人の加賀屋吉兵衛、縮めて加賀吉が出て来て国芳を見るや眉を開いて嬉しそうな表情をした。

「アラッ!マア!ちょいと!これはこれは!ちょいと!マア!お待ちしてましたよう!えーッと、どちら様でしたっけ」

国芳はひっくり返った。

「国芳です。歌川豊国が門人の歌川国芳」

ああっ、と加賀吉は手を打った。

「豊国先生のお弟子さん!エエ、ハイハイ!そうでしたそうでした。国芳さん。今日はいかがなさいました」

「豊国の父っつぁんが生前、わっちの仕事の事をその、なにか良いように言い含めていたと思いやすが、父っつぁんが死んで半年も経ちましたし、もうそろそろ何か良い話が沸いてくる頃じゃねえかと・・・・・・」

この通り画稿も幾つか持ってきました、そう言って国芳の取り出した画稿を加賀吉は受け取り、パラパラと捲って頷いた。

「ンー、確かにどれも良い絵ですねえ。ねえ、三助」

「あい!あい!」

せっかちそうな使用人の一人が、ブンブンと首を縦に振った。

「でも、うーん、今は旦那のこの元気な絵に見合う企画がなくてねえ。のう三助」

「あい!あい!」

「旦那ア!そこをなんとか・・・・・・」

「ほんに申し訳ございませんけどね、今は手前共の力不足で、ちょうど上手い具合にご紹介できる企画というのが、本当に無いのですよ。本日のところはご勘弁くだせえやし」

画稿ごと突き返されて、国芳はぐうの音も出なかった。

「そうですか」、

加賀吉が突き出した紙を、国芳は静かに受け取った。弟子が引き際が悪いとなれば豊国の名に傷がつく。

「仕方ねえ。そういう事なら今日は引き揚げやさア。またいい話が来たら、ぜひ歌川国芳を使ってやってくだせえ。どうも、忙しい所を邪魔しちまって、相すいやせんでした」

国芳は茶を勧められたのも断って、すごすごと引き揚げた。

こういう時、本当は一杯ひっかけて帰りたいところだが懐が寒しくてそれもできない。

代わりに両国橋の上で、しばらくぼんやりする。

両国橋は、江戸の町を鍋で濃く煮詰めたようなところである。

馬鹿に大きな唐辛子の張り子を背負った唐辛子売り、天秤に野菜やら魚やらを担いだ棒手振り、子犬のようにじゃれ合う町娘、肩車して笑いあう幼子と父親、美人局、相撲取り、すり、泥棒、知った顔に知らぬ顔、ありとあらゆる人間が流れてゆく。

橋の中央で欄干にもたれてぼうっとそれを眺めていると、腹の底からなんだかわけのわからない元気が湧いてくる。

この町では、どんなに馬鹿げた大道芸でもその日啜るたった一杯の酒のために本気でやる。江戸の人間は真剣にふざけるのが得意だ。

馬鹿馬鹿しいと思う。だが馬鹿馬鹿しいほど、いとおしい。

誰もがそう思っている。

通行人は両国橋で日々披露される大道芸を馬鹿馬鹿しいと思いながらもくすっと笑って、一銭でも二銭でもお金を落としていく。くだらない事に一生懸命なその心意気を買うのである。

しばらくそれを眺めていると、橋の下の川から、国芳の耳に女の嬌声が飛び込んできた。

「やアねえ、先生ってば!そんな面白い事言って!」

「ほんに、先生の絵って粋ちょんだわア!」

先生先生という呼び声に、ぴくり、と国芳の耳が反応した。

(今確かに、絵と言ったな)

わっちがこんな空っ風に吹かれている時に、女を船に乗せて乱痴気騒ぎをしている浮かれた絵描きはどこのどいつだ。ちょいと顔でも見てやろう。

国芳は、軽い気持ちで橋の欄干から舟上の遊客を見下ろした。

(あっ!・・・・・・)

見た瞬間、全身の血が逆流したようであった。沸騰するほど身体が熱くなり、頭が殴られたようにぐわんぐわんと揺れた。

(国貞の兄さん・・・・・・!)

豊国の死後、あんなに憔悴していた国貞が、泥酔してすだれを上げた屋根船から身を乗り出し、女と戯れている。

まさに、国芳が喉が手が出るほど欲しい栄誉を手にした者の姿であった。

(どうしたって、国貞兄さんには、敵わねえ・・・・・・)

国貞の姿を見るたびに突きつけられるその事実に、国芳は砕けるほど歯を噛み締めていた。

そうしているうちに、いよいよ酔態の極まった国貞は、舟から乗り出して盛んに何かを叫び始めた。

(あの狐、相当酔っていやがる。何を言っているんだ)

国芳が耳をそばだてると、国貞の声が風に乗って飛び込んできた。

「私はア!いつか!いつかかならず!豊国になるぞオ!」・・・・・・

・・・・・・

胸の奥をぎゅっと、鷲掴みにされるような思いがした。

豊国の最期の病床で、「俺の名跡を継げ」と口約束で託されたのは国貞だった。

しかし葬式の後、実際に二代目豊国を継いだのは国貞ではなく、元々豊国と養子縁組をしていた国重という兄弟子だった。道理とはいえ、誰よりも豊国を敬愛し追随してきた国貞は、結局豊国にはなれなかったのである。

(国貞兄さんほどの人でも、苦い思いを抱えて生きている・・・・・・)

初めは劣情で沸騰した血も、だんだん遠ざかる国貞の痛々しいまでの乱痴気ぶりを見るほどに切なくなり、いつの間にかしんと静かになった。

顔を上げると、空が錦絵の吹きぼかしのように滲んで、ひどく綺麗だった。

歌川広重「両国橋大川ばた」

・・・・・・

「なあ、あの空の上には、よっぽど腕の良い摺り師がいるんだろうな」

隣で地面に品を並べている豆売りの親父に、国芳は話すともなく話しかけた。親父は聞いているのかいないのか、黙って豆を弄っている。

「だってよ、そうでなきゃ、こんな綺麗な色が擦れるわきゃねえもんな。・・・・・・」

空の上にいるとてつもなく大きな人間が、とてつもなく小さなこの江戸の町を見下ろしていて、その中でこまねずみが回るように忙しなくくるくる泣いたり喚いたりしている国芳たちを笑っているような気がした。

「ナア、悔しいなア、誰かがわっちらの事ォ笑ってやがる」・・・・・・

ふいに、目から涙がころりと転げ落ちた。

(チクショウ、チクショウ、チクショウ。・・・・・・)

両国橋の雑踏の中央で、国芳は泣いた。

誰しもが思い通りに活躍できて何もかも上手くいく。

そんな世の中がここではないどこかにあるかもしれないと、小さな頃からずっと思っていた。

紺屋でないどこか。

豊国の門下ではないどこか。

もしかすると、江戸でないどこか。

逃げても逃げても、辿り着く先々でここでもない、ここでもないと逃げ続けた。

しかしその繰り返しの中で国芳はもうとっくに、分かっている。

本当は、他のどこかでは意味がないのだと。

この江戸でなければ、意味などない。江戸という都は、陰翳(かげ)も差せば饐(す)えた匂いもし、さびしい時こそ冷たい風が袂を抜けるようなろくでもない都だ。

しかしそんなろくでもない都に生きるからこそ、この足で踏ん張る意味がある。

この手で描き続ける意味がある。

この目に焼き付ける意味がある。

(わっちゃア傍観者などに、決してなるものか。・・・・・・)

ふと、豊国の言葉が甦った。自分が自分を諦めた瞬間に、「傍観者」が生まれる。

そんなものになってやるものかと思う。

この時代の、傍観者に。

この江戸の、傍観者に。

「絶対そんなものにゃ、ならねえ」。

その言葉は、今ようやく国芳の中に生命を得て輝きはじめた。

国貞の兄さんみてえな叶うわけのない天才がいるこの江戸で、みつが待つこの江戸で、大好きな人たちも大嫌いな人たちも皆が生きるこの江戸で、自分の目で見、自分の足で立ち、大手を振って歩いてゆく。

何一つままならないこの江戸で。

(やってやる。・・・・・・)

両国橋の真ん中で、国芳は誓った。

かならず己の道の上で笑って生きて、生き抜いてゆくと。

「わっちゃアかならずやってやる!」

国芳の叫び声に、唐辛子売りも河童も大人も子どもも皆が振り返った。その視線の先で、国芳はチャッと尻をからげ、両国橋から韋駄天のごとく駆けだした。

「おみつ!待っていろ!この空の色を、必ずめえにも見せてやらア!」

目指すのはただひたすら、光の差す方である。

・・・・・・

「たでえまア!」

「おかえりなさい、芳さん」

かまちにどっかり座った国芳を、佐吉はいつもの涼しい笑顔で迎えた。

「どうだった、でっけえ魚にありつけそうかえ?」

「いんや、さっぱりだ!」

そう言う国芳は少しも落ち込む様子はなく、飛び出す前と同じ場所に腰を据え、猛然と絵を描き始めた。佐吉がそんな国芳の背後で、生まれつき口角のきゅっとあがったくちびるを開いた。

「ずっと訊きてえと思ってたんだけどさ」、

芳さんって、

「なんで全然めげねえの」。

「それア、傍観者のいうことだ」

国芳は顔を上げもせずに言った。

「ボウカンシャ?」

佐吉はきょとんとしたが、突然「あ!」と素っ頓狂な声を上げた。国芳は思わずびくりと筆を止めた。

「何だよ急にでけえ声出して」

国芳は、怪訝そうに顔だけ振り返った。

「思い出した!」

「なに」

「芳さんに、頼みてえ仕事。・・・・・・」

佐吉は何かを含んだ目で笑った。なんだ、と国芳が懐に手を突っ込んで胸元を掻きつつ訊いた。

「また冗談か洒落をかましたら、いよいよぶん殴るぜ」

「あのね、おいらの背中に、龍の絵を描いておくんなよ。刺青(ほりもの)を入れてえんだ」

「何!」

いきなりなに抜かしやがる、と国芳は驚きのあまり半分怒ったように言った。

「良いじゃねえの、芳さん」

「おめえみてえに肌の白くて綺麗な男が、何でまた刺青なんて思い付くかねエ」

「何でって、格好良いじゃない」。

佐吉が、涼やかに微笑んだ。

この男はいつもそうだ。

怖いという感情を母親の腹の中に置き忘れたらしい。涼やかな目でさも楽しそうに、とんでもない大きな事を突然言い出す。

「蒸し暑くなる前にやっちまいたいんだ。暑くなると、下手すりゃ肌膚が腐るっていうから」

ねえ、駄目?と拝むようにする佐吉に、国芳はふっと笑って頷いた。

「いいぜ。」

「ほんにかえ!?断られるかと思ったア」

「断るもんか。他の絵師にお前の身体汚されるくれえならわっちが描くさ。それに」、

「それに?」

国芳の目に、ふうっと強い光が宿った。

「今なら描ける気がすらア」。・・・・・・

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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