悲劇の聖女・井上内親王の伝説。謀略と裏切り、理不尽な死からまさかの結末!?

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悲劇の聖女・井上内親王の伝説。謀略と裏切り、理不尽な死からまさかの結末!?

古今東西、怨みをもって亡くなった方が「化けて出る」のはよくある話。

河鍋暁斎「幽霊図」明治三1872年

さて、今回紹介するのは聖武天皇の第一皇女・井上内親王(いのえないしんのう)。幼くして神に仕えた少女は、やがて朝廷での権力争いに巻き込まれていくのですが、その数奇な人生をたどってみましょう。

※以下、本来であれば周囲の状況によって呼び名も変わっていくのですが、ここでは「井上内親王」で統一します。

幼くして斎王に、そして京都に還るまで

井上内親王は養老元717年、時の皇太子殿下・首親王(おびとのしんのう。後の聖武天皇)の長女として生まれたとされています。

そんな井上内親王が5歳となった養老五721年の9月11日、彼女は斎王に卜定(ぼくじょう。占いの結果として決定)されます。

斎王(さいおう・いつきのきみ)とは伊勢の神宮にお祀りされている皇祖神(皇室の御先祖である神様)・天照大神にお仕えする聖職者で、未婚の皇族女性から選ばれました。

それから23年間にわたって厳しい精進潔斎(しょうじんけっさい。ケガレを受けない清らかな生活)を続け、弟の安積親王(あさかしんのう)が薨去された天平十六744年1月13日、斎王の任を解かれて京都に還ってきたのでした。

白壁王との結婚・そしてニ人の子供たち

さて、京都に還って来た井上内親王は、天平十九747年ごろに天智天皇の皇孫に当たる白壁王(しらかべおう)と結婚。すでにアラサーですから、当時としては相当な晩婚です。

その後、天平勝宝六756年に38歳で長女・酒人内親王(さかひとないしんのう)を、天平宝字五761年に45歳で長男・他戸親王(おさべしんのう)を産んだとされていますが、この異例な高齢出産に、今でも諸説が唱えられています。

ところで、当時は朝廷の内部で権力抗争が激化しており、多くの皇位継承候補が次々と殺されていく中、白壁王は酒におぼれて無能なフリをしていたことで魔手から逃れたと言われています。

その一方で、称徳天皇の治世下で大納言(右大臣・左大臣につぐ第3位の権力者)として政界をリードしていたとも言われますから、おそらく有能でありながら野心を示さないことで、権力抗争からうまく距離をとっていたものと考えられます。

夫の皇位継承、そして不思議なわらべうた

そんな神護景雲四770年、皇位継承者である皇太子を定めないまま、女帝・称徳天皇が薨去してしまいます。

ここでまた有力貴族たちによる後継者争いが起きるのですが、最終的には何かと都合のよさげな白壁王を天皇陛下に即位させます。時に宝亀元770年(※神護景雲から改元)、後の光仁天皇です。

その正妻である井上内親王は皇后となったのですが、このころ、都ではこんなわらべうたが流行っていたそうです。

♪葛城寺(かずらきでら)の前にありや、豊浦寺(とゆらでら)の西にありや、おしとど、としとど、桜井に白壁沈(つ)くや、よき壁沈(つ)くや、おしとど、としとど、然(しこう)しては、国ぞさかゆるや、吾(あ)が家よぞさかゆるや、おしとど、としとど……♪

「しとど」とは「びしょぬれ」を意味し、ごく大ざっぱに解釈すれば「壁が井戸の水に浸かってびしょぬれになれば、国が栄える、家が栄える」、つまり白壁王(光仁天皇)と井上内親王の二人がよい政治をしてくれる、といった期待を意味します。

昔から、時おりこうした暗示的な歌が流行しますが、子供たちが朝廷の内部まで知った上で作ったとは考えにくく、白壁王を猛烈プッシュしていた貴族たちが、世論形勢のために流行らせたのかも知れませんね。

翌・宝亀二771年には長男の他戸親王が皇太子に立てられるなど順風満帆、井上内親王は人生の絶頂期を迎えていました。

謀略と裏切り、理不尽な悲劇の末路

しかし、いいことは長く続きません。

宝亀三772年3月、井上内親王は「光仁天皇を呪い殺そうとした(巫蠱の罪・ふこ)」という言いがかりにより、いきなり皇后の地位を奪われてしまいます。

追い討ちをかけるように同年5月、息子の他戸親王も「井上内親王の子だから」というとばっちり以外の何者でもない理不尽な罪で皇太子の位を奪われた上、名前も「庶人(もろひと)」に変えさせられてしまいました。

つまり皇族としての身分まで奪われてしまったのですが、そこまでの重罪であるにもかかわらず、井上内親王・他戸親王の側近たちはお咎めなしであることから、周囲の裏切りがあったものと考えられています。

さらに宝亀四773年10月、光仁天皇の姉でご不例(病気)となっていた難波内親王(なにわないしんのう)を呪ったという罪で、母子ともども大和国宇智郡(現:奈良県五條市)に幽閉され、宝亀六775年4月27日、母子同時に亡くなったそうです。

この不自然きわまる転落劇は、朝廷内部で起きていた皇位継承者争いと無関係ではなく、光仁天皇の異母兄である山部親王(やまべしんのう。後の桓武天皇)を皇太子に立てたい勢力による謀略と考えられます。

時に井上内親王は享年59歳、他戸親王は享年15歳という若さでした。

怨念で竜に変身!?暴風雨と名誉回復

しかし、話はまだ終わりません。

井上内親王と他戸親王が亡くなって四か月後の宝亀六775年8月、伊勢(現:三重県)と尾張(現:愛知県西部)、そして美濃(現:岐阜県南部)を暴風雨が襲い、伊勢の神宮にも大きな被害が出ました。

こういう場合、通常なら伊勢国司が修繕費用を負担するのですが、この時ばかりは被害が大きかったため、朝廷から修理使が派遣されました。

これは事態を重く見た朝廷が、かつて斎王として神宮にお仕えしていた井上内親王の怨霊を鎮めるためとも言われ、『帝王編年紀』や『一代要記』など平安時代の記録には、井上内親王が竜に化けて暴れ回ったと伝えられます。

そんな祟りも続いてか、宝亀八777年には井上内親王の墓が立派にリニューアルされたのをはじめ、彼女の名誉回復キャンペーンが展開されます。

最終的には延暦十九800年、井上内親王は再び皇后の位に復帰されています。

と言っても光仁天皇はとっく(天応元782年12月23日)に崩御され、皇位は山部親王(桓武天皇)が継承していましたが、今さらでも何でもご機嫌をとらねばならないほど、井上内親王が恐ろしい怨霊となっていたことがわかります。

しかし、その息子である他戸親王についてはなぜかそのままとなっています。

当初は「井上内親王の子供だから」という理不尽な理由で罪に落とされたはずが、時代が下って平安時代ごろには「むしろ息子の悪行が母親の冤罪につながった」という見方が強まり、他戸親王にとってはいい迷惑ですね。

まとめ

幼くして神に仕え、苛烈な権力抗争の中でパートナーと巡りあうも側近たちに裏切られ、非業の死を遂げた後は怨霊となって復讐を遂げ、名誉を回復した井上内親王。

現在、彼女の御魂は奈良県五條市の御霊神社をはじめ、各地の御霊神社で他戸親王らと共にお祀りされています。

彼女たちが安らかであるよう、そしてより多くの方に心を寄せられるよう願っています。

※参考:榎村寛之『斎宮 ―伊勢斎王たちの生きた古代史』中公新書

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