力道山、長嶋茂雄、石原裕次郎「酒と女と友情」昭和の3大スター“兄弟分”秘話

日刊大衆

写真はイメージです
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 太平洋戦争の傷跡がようやく癒えた頃、颯爽と日本人の前に現れた3人の英雄。人々に勇気を与えた、男たちの物語!

 伝家の宝刀・空手チョップで、戦後ニッポンを元気にしたプロレスラー、スーパースターの力道山。政財界、芸能界、スポーツ界など、彼の人脈の幅広さは類例がないだろう。力道山は自伝『空手チョップ世界を行く』の中で、〈人間誠意をもって事に当たれば、おのずから支援も生まれようというものだろう。人間にとって大切なのは信用だ〉と語っている。

 力道山を“兄弟分”のように慕っていた芸能人の一人が、タフガイこと石原裕次郎だ。2人の交流は、スポーツカー好きという共通の趣味から始まった。「妻となる北原三枝さんと一緒に、裕次郎さんが大田区梅田町の力道山宅に招かれたときに、力道山が所有していたベンツ300SLクーペ(ガルウィング)に裕次郎さんが一目惚れ。スポーツカー談義で、2人は大いに盛り上がったとか」(元老舗芸能プロ幹部)

 力道山はキャデラック、ロールスロイスなど数台の高級外車を保有していたが、この跳ね上げ式ドアのガルウィングは、後に力道山から裕次郎に渡ったといわれる。「昼間から撮影所の芝生でビールをラッパ飲みしたり、レコーディング前にビールで喉を潤すなど、酒豪の裕次郎さんは力道山と酒席を共にすることが多かったといいます」(前同)

 裕次郎の兄で、作家の石原慎太郎氏が同席したナイトクラブでの逸話がすごい。力道山夫人の田中敬子さんは自書『夫・力道山の慟哭』の中で、こう語っている。〈一緒にお酒を飲んでいると、突然、力道山が酒の入ったグラスをバリバリと齧り始めたので、慎太郎さんが驚いて“唇が切れて血が出てるよ”と、大慌てで止めたそうです。主人に聞くと“パフォーマンスを見せたんだ”と笑っていました〉

 裕次郎の無二の親友で昭和の大スター・勝新太郎も、力道山と酒を飲んでは一緒に踊る仲で、力道山の気前の良さを語っている。「リキさんは“飲め、飲め”って、自分が飲んでいるナポレオンの酒を、俺から店中のホステス、お客まで呼んで、いつもみんなに全部飲ませちゃうんだよな」

 力道山が地方巡業でキャバレーなどに行くと、大騒ぎになることも多かった。そこで、旅館に夜の蝶を呼んだという。「弟子たちにキャバレーから夜の蝶を1人連れてこいと命令すると、力道山の好みの丸顔のぽっちゃりタイプを連れてくるわけです。それで、一杯だけお酌してもらって、女性をさっと帰して、おしまい。これが粋な遊び方だそうです」(当時のプロレス関係者)

 テレビ初のプロレス実況中継は、1954年2月19日の東京・蔵前国技館での力道山・木村政彦VS シャープ兄弟のタッグマッチ戦。会場は超満員で、街頭テレビは黒山の人だかり。テレビ受信機の普及で、茶の間のファンが急増した。

■ミスター・ジャイアンツがプロレスのテレビ中継に大興奮

 その1年後、立教大学野球部の智徳寮で、テレビのプロレス観戦に熱中する選手がいた。後の“ミスター・ジャイアンツ”こと長嶋茂雄だ。雑誌『テレビサライ』のインタビューで、当時の驚きと興奮を述懐している。〈もちろん白黒のテレビで。そのときは、力さん、そう、力道山の出ているプロレスでした。力さんの空手チョップもよかったけれど、世の中にすごい文明の利器が生まれたんだなと〉

 プロレスとプロ野球と世界は違えど、力道山と長嶋の両雄はテレビ中継がブームになることを早くも予感していた。奇しくも日本プロレスの試合も、長嶋が入団した巨人の試合も、日本テレビが中継することになった。「力道山と長嶋さんはプライベートでも、まるで兄弟のように親交が深かった。長嶋さんは、よほど力道山に心酔していたのか、敬子夫人と長嶋さんとの交遊は力道山の没後も続きました。敬子夫人は長嶋夫妻と新築ビルのオープニングパーティなどで、一緒に会食したそうです」(興行関係者)

 また、力道山以外に、長嶋が親しかった大物有名人といえば、真っ先に名前を挙げられるのが、石原裕次郎その人だろう。「長嶋さんと裕次郎さんは、“シゲオ”“裕ちゃん”と呼び合う、まさに“兄弟分”の仲。裕次郎さんは『男の友情背番号・3』という長嶋さんの応援歌を企画し、歌っているんです」(前同)

 60年12月2日、東京・日比谷の日活国際ホテルで行われた石原裕次郎と北原三枝の結婚披露宴には、力道山と長嶋がそろって出席。「その2年後の正月、裕次郎夫妻と長嶋は、雑誌の企画でアメリカ旅行へ旅立ちました。ニューヨーク、マイアミ、ミネアポリス、ロサンゼルス、ラスベガスを周遊する25日間のバカンスだったといいます。当時、独身だった長嶋は、“マコさんをいたわる裕ちゃんのレディー・ファーストぶりにあてられました”と、笑いながら話していたのが印象的でした」(取材に当たった芸能記者)

 裕次郎夫妻と長嶋がアメリカ旅行を楽しんだ62年は、力道山が日本航空客室乗務員だった田中敬子さんにプロポーズして、承諾を受けた年でもあった。「63年6月5日、ホテル・オークラで力道山と敬子さんが挙式。仲人は自民党の大野伴睦副総裁で、招待客は3000人。当時のマスコミは、史上最大の豪華な結婚披露パーティと報道しました」(元テレビ局幹部)

 すごかったのは結婚披露パーティの規模だけではない。出席者も日本を代表する超大物ぞろいだった。「政財界から河野一郎大臣、川島正次郎大臣、正力松太郎日本テレビ会長、永田雅一大映社長をはじめ錚々たる顔ぶれでした。芸能界からは三船敏郎、森繁久彌、鶴田浩二、春日八郎、村田英雄らの面々。横綱・大鵬や白井義男ら、スポーツ界の大スターたちも出席。フランク・シナトラやジョン・ウェインから祝電も寄せられたそうです」(前同)

■大相撲時代、大横綱・若乃花に激しい稽古

 力道山夫妻の新居は、東京・赤坂のリキ・アパート最上階。地上6階建て全82世帯収容のマンションだ。中庭のプールサイドで、よくホームパーティが開かれた。長嶋茂雄、石原裕次郎、横綱・初代若乃花、金田正一、張本勲をはじめ、多くの芸能人やスポーツ選手が訪れ、夜遅くまで宴が続いた。敬子さんは『夫・力道山の慟哭』の中で、こう振り返っている。

〈よく遊びにいらしていたのが、大相撲時代の弟弟子の若乃花関です。応接間にお通ししようとすると、遠慮して廊下に座っているので、何度も勧めてようやく応接間に入られたのを覚えています〉

 角界を去った後も、力道山は、その後、昭和の大横綱となる若乃花を“ワカ”と呼んで目をかけていた。大相撲時代の力道山から激しい稽古を受け、耐えかねた若乃花が、力道山の太ももに噛みついたという逸話があるが、若乃花は後に、こう語っている。

「現在の地位(横綱)があるのは、リキさんのおかげです。厳しい稽古から逃げ出した自分を黙って連れ戻して酒まで飲ませてくれたこと、シゴキを見かねて止めてくれたことなど、数え上げたらきりがないほどお世話になっているんです」

 若乃花が横綱に昇進した記念に、力道山は愛用のゴルフセットをプレゼント。力道山が音頭を取って、横綱昇進祝いの宴席も設けた。

 また、力道山が弟分のようにかわいがっていたのが、プロ野球選手の金田正一と張本勲だ。「2人には力道山流のウエートトレーニングを伝授。特に下半身を鍛える練習の重要性を説いたそうです」(前出のプロレス関係者)

■アントニオ猪木が師匠と別れの盃を

 人気・実力とも絶頂だった力道山は、63年12月8日、赤坂のナイトクラブ・ニューラテンクォーターで暴漢にナイフで刺され、その傷が原因で同月15日に39歳の若さで他界。力道山の内臓は、打撲と飲酒などで、かなり痛んでいたという。「力道山を刺した男が反社会組織の組員だったため、事件後、力道山がプロレスの興行で世話になっていた田岡一雄組長と、反社会組織トップとの話し合いで、偶発的な事故として手打ちが行われました」(前同)

 関西方面の興行を取り仕切る勧進元の田岡三代目と懇意にしていた力道山は、敬子夫人との挙式前に婚約の報告で挨拶に行っている。そのときは、京都の老舗『一力亭』というお茶屋の2階を貸し切り、舞妓たちをズラリと揃える大変な歓迎ぶりで、〈その様に圧倒されて、深々とお辞儀をして挨拶するのが精一杯。田岡さんは“よく来てくれましたね。まあ、飲んでください”とお酒を勧めて下さって、緊張をほぐして頂きました〉と、敬子夫人は田岡三代目との懐かしい思い出を自書で漏らしている。

 力道山の葬儀は、12月20日、東京・大田区の池上本門寺で行われた。葬儀委員長は自民党の大野伴睦副総裁だったが、訪韓中のため、葬儀委員長代行を日本最大のフィクサーといわれた児玉誉士夫が務めた。力道山の通夜の席で憔悴しきった敬子夫人を励まし続けたのが児玉だった。弔問客にはその筋の関係者も多く、不安がる夫人を児玉は、「あの手の連中は、近寄らせないから。まだ若いのに大変だろうけれど、頑張りなさい」と元気づけたという。

 葬儀には政財界や芸能界、スポーツ界をはじめ、各界の名士や多くのファンが参列。その列は本門寺から池上駅付近まで続き、1万2000人が力道山との別れを惜しんだ。

 力道山亡き後、その意志を継いだレスラーといえば、アントニオ猪木だろう。「60年にブラジルでスカウトした17歳の猪木少年をリキ・アパートに住まわせ、身の回りの世話をさせながら、地獄のような猛練習を課していました。猪木の代名詞である“闘魂”は、力道山がよく色紙に書いていた座右の銘。猪木さんのビンタは力道山仕込み。力道山の教えを実践し、継承しています」(元新日本プロレス幹部)

 力道山が暴漢に刺された日の午後、猪木は力道山の部屋へ呼ばれた。当時の最高級ウイスキーだった“ジョニ黒”を駆けつけ3杯。勢いよく飲み干した。「同席していた高砂親方(元横綱・前田山)が“こいつ(猪木)は、いい顔してるね”と言うと、力道山は自慢げに“そうだろう”と頷いたといいます。“その一言が俺を救ってくれた”と猪木は自伝『俺の魂』で綴っている。駆けつけ3杯は師匠である力道山と猪木の“別れの盃”になってしまいました」(前同)

 日本プロレス界の父が歩んだ豪快で華麗な軌跡――。力道山と、“兄弟分”の関係にあった長嶋、裕次郎が日本を元気にしてきたのだ。

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