美しき女武者!木曾義仲と共に戦いその最期を語り継いだ女武者・巴御前の生涯(下)

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美しき女武者!木曾義仲と共に戦いその最期を語り継いだ女武者・巴御前の生涯(下)

前回のあらすじ

平家一門を打倒すべく、木曽義仲(きその よしなか)の挙兵に従った美しき女武者・巴御前(ともえごぜん)

その武勇も手伝って、信越や北陸の戦場で平氏軍に連戦連勝、いよいよ京都から平家一門を追い出した功績により、義仲は「朝日の将軍」という称号を賜るなど人生の絶頂期を迎えたのですが……。

前回はこちら。

美しき女武者!木曾義仲と共に戦いその最期を語り継いだ女武者・巴御前の生涯(上)

奢り高ぶる義仲、英雄から一転・逆賊に

京都から平家一門を追い出した功に奢った義仲は、しだいに傲慢な振舞いが目立つようになり、恩賞の少なさに不満を持った寄せ集めの兵たちが、各所で略奪や暴行などの乱暴狼藉を働きます。

その惨状を、当時の公卿・九条兼実(くじょう かねざね)は自身の日記『玉葉』にこう記します。

「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」
※『玉葉』寿永二1183年9月3日条

【意訳】最近は武士以外に生き延びるすべがなく、多くの人々が京都から逃げてしまった。京都周辺では作物が荒らされ、食糧もろくに残らぬ有様。京都じゅうの神社仏閣、民家が破壊され、朝廷への貢ぎ物すら奪われる始末……。

こうなると、木曾軍は「平家一門を追っ払ってくれたヒーロー」どころか「平家一門よりもたちの悪いインベーダー(侵略者)」に転落、たちまち嫌われてしまいます。

やがて義仲を討伐するよう鎌倉の頼朝公に命令が下され、義仲は頼朝公に派遣された源義経の軍勢と、宇治川を挟んで戦うことになります。

時は寿永三1184年1月20日、世に言う「宇治川の戦い」です。

宇治川・最後の戦い

歌川芳員『粟津ヶ原大合戦之図』にて、獅子奮迅の大活躍。江戸時代。

ここでも巴は攻め寄せる鎌倉勢の大軍を相手に一歩も怯むことなく戦います。

その豪傑ぶりに舌を巻いた敵将・畠山次郎重忠(はたけやまの じろうしげただ)が郎党に「あの女は何者か?」と訊いたところ、

「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」
※『源平盛衰記』

【意訳】義仲の乳母で、巴と言います。弓馬の達者で、義仲とは乳母ながら妾(愛人)でもあり、一方では大軍を率いる戦上手。今井兼平や樋口兼光とは兄弟で、彼らに劣らぬ怖ろしい女です。

(※巴の立場については年齢同様に諸説あり、義仲の側室だったり身分の低い妾だったり乳母だったり、などと曖昧です。ちなみに先述の「便女」とは文字通り「便利な女」の意で、何かと活躍しました)

そう聞いた重忠もまた、東国に聞こえた猛将。「相手にとって不足なし」と喜び勇んだことでしょう。

しかし、巴らの奮戦もむなしく武運は木曾方にあらず、敗れ去った義仲らは、生き残ったわずかな人数で信州を目指すのでした。

義仲との別離「最後のいくさしてみせ奉らん」

楊洲周延「大日本國誌略之内」より、奮戦する巴御前。

さて、這々(ほうほう)の体で京から逃れた義仲たちは、江州粟津(現:滋賀県大津市辺り)まで落ちのびますが、ここに数千騎の追手が迫ります。

対する義仲方はもう十騎もいない状態、もはや覚悟を決めて、巴に言います。

「最期まで女を連れていたとあっては東国武者の恥なれば、汝は独り落ち延びよ(要約)」

しかし、巴もたいがい強情で「最期までお供させて下さい」と言い張るものの、結局は義仲の願いを聞き入れます。

最後のいくさしてみせ奉らん(最後の武勇をお見せします)」
※『平家物語』より。

作者不詳「巴御前図」、江戸時代?恩田八郎師重との一騎討ち。

そう言うなり追手の方へと馬を馳せ、豪傑として知られた敵将・恩田八郎師重(おんだの はちろうもろしげ)と一騎討ちに臨み、師重を馬から引きずり落とすなり首級を叩き落としました。

そして巴は唖然とする敵勢を前に鎧や兜を脱ぎ捨て、東の方角へと走り去っていったそうです。

これまで義仲を守ることこそ戦う理由であった巴にとって、義仲の元を去る以上、戦う理由はなくなります。

戦いの象徴である鎧や兜を脱ぎ捨てたことは、巴の引退表明だったのでしょう。

この一騎討ちを最後に、巴が武勇を奮うことはなくなりました。

巴が去った後、義仲は間もなく討ち取られました。享年31歳。

その後、巴御前は

さて、義仲の元を去った巴がその後どうなったか、は諸説あります。

義仲の菩提を弔うために出家して尼となったとか、あるいは木曾方の残党として捕らわれ、鎌倉に連行されたところ、一目惚れしてしまった和田太郎義盛(わだの たろうよしもり。頼朝公の御家人)の側室にされて男子をもうけたとか。

この男子こそ、後に豪傑として知られる朝比奈三郎義秀(あさひなの さぶろうよしひで)。素潜りでサメ3匹と格闘して陸まで担ぎ上げたり、一晩で峠の道(現:鎌倉七口の一・朝夷奈切通)を開通させたり……。

おそらく、その怪力ぶりから「巴御前の子供じゃなかろうか」という噂が立って、それが独り歩きしたのかも知れません。

その義秀と、夫?である義盛は、鎌倉幕府の執権・北条一族との政争に敗れ、和田合戦(建暦三1213年5月2~3日)で討死します。もし義盛の側室になっていたとすれば、巴は又しても伴侶を失ったことになります。

いずれにしても和田合戦の後、越中国礪波郡福光(現:富山県礪波市)の豪族で義仲の旧臣・石黒氏に身を寄せ、主君であり伴侶でもあった義仲をはじめ、死んでいった一族や仲間たちの菩提を弔う日々を送ったということです。

愛する者の「語り部」として

楊洲周延「日本名女咄」より、巴御前と別れ、去りゆく義仲主従。明治時代。

巴が亡くなったのは『源平盛衰記』によると91歳、諸説ありますが寛元元1243年から建長四1253年の間となります。

建長年間と言えば、鎌倉幕府の将軍は6代目・宗尊親王(むねたかしんのう)、同じく執権は5代目・北条時頼(ほうじょう ときより)と、そんな時代。

もはや源平合戦など遠い昔の物語、義仲や頼朝公の挙兵当時を知る者とて、ほとんど生き残ってはいません。

ところで、かつて義仲は別れ際、巴にこう言いました。

「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」
※『源平盛衰記』より。

【意訳】去年の春、信州に残して来た妻子と二度と会えないのは無念である。私のことを想うならば、今ここで私と共に討死するより、信州に帰って妻子や人々に私の最期を語り伝えて欲しい。

かつて信州木曾の英雄として、天下にその名を轟かせた義仲の名を不滅のものとするべく、後世へ語り継ぐこと。

そう使命を帯びた巴は、命の限り人々へ語り続けたことでしょう。

かつて義仲と共に駆け巡った戦場での武勇伝や、未来の希望に胸沸かせた日々の物語と共に。

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