田中角栄「名勝負物語」 第二番 福田赳夫(6) (2/2ページ)
銃口の前に立つ覚悟だ」
国家経営、国民の生命と財産に全責任を負うという緊張感が知れた。
一方の福田は、負けてなお恬淡、“敗戦の弁”をこう語ったものであった。
「(第1回投票で)170人は大丈夫だと思っていたが、150になったのはビックリした。人の心は分からんものだ。敗因は、ワシが佐藤体制を代表しておるということでどうも新味が出て来ない、そんな印象はあったかと思う」(『文藝春秋』昭和47年9月号=要約=)
佐藤栄作という親分にさからっての命懸けの下克上に及んだ田中と、ある種の“禅譲”意識に甘えた福田との間には、戦闘開始の時点ですでに勝敗は見えていたということでもあった。
★2閣僚兼務の異例の船出
そのうえで、田中は新内閣の閣僚、党幹部人事はもとより田中派で多くを固める中、主要閣僚に三木武夫副総理、大平正芳外相、中曽根康弘通産相を登用し、強力布陣を敷いた。まさに、キャッチフレーズの「決断と実行」に挑む意気込みを示したのである。
組閣にあたっては、こんなエピソードを残している。福田個人に対して、田中は「怨念はない」総裁選であったことはこれまでに記した。だが、食うか食われるかの死闘を演じた結果ではあるものの、田中は福田派から二人の閣僚を起用した。有田喜一経済企画庁長官、三池信郵政相である。
ところが、この二人に、二階堂進官房長官が内定の知らせをすることなく一方的に記者団に発表してしまったことから、ドタバタのスタートとなったのだった。いきなりの発表で心証を害した二人は入閣拒否、結局、田中首相が経済企画庁長官と郵政相ポストを兼務するという異例のそれとなった。当時の福田派担当記者の弁がある。
「福田は有田、三池に『入閣したらどうか』と言ったが、二人は『打診も何もなく、田中は調子づいている』と聞かなかった。田中は福田との関係をつないでおきたかったということだが、意が通じなかったようだった」
かくて、田中時代の幕開けである。列島の過疎・過密、格差是正を目指してまず「工業再配置促進法」を制定、「日本列島改造論」の実施へ向けてスタートを切ると同時に、「日中国交回復」に向けて一気に歩を進めた。まさに、「コンピューター付きブルドーザー」を自認した田中ならではの“猛進”であった。
しかし、舞台の暗転は意外と早かった。
(文中敬称略/この項つづく)
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小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。