【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第29話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第29話

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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第28話

■文政八年、秋の八朔(1)

八朔の吉原遊廓、大門の前で男たちが噂をしている。

「聞いたかえ、絵師の大勝負の話」

「ああ、あの渓斎英泉が、馬鹿でッけえ大屏風絵を描いて京町一丁目岡本屋の紫野花魁に送ったんだとよ。今日の夜見世からしばらく岡本屋の間口に飾るんだそうだ」

「へえ、さすがだな。わっちも早くその大屏風にお目にかかりてえや」

「俺ア今晩、岡本屋に決めたぜ」

「そんならわっちもだ。そんでもって、英泉の勝負の相手は何を描いたんでい」

「それが、もう一方の国なんとかって奴は・・・・・・」

・・・・・・

・・・・・・

京町一丁目、妓楼岡本屋の二階。

みつは持ち部屋の鏡台の前で髪結いに髪を触らせながら、鏡に映った己の顔を血の滲みそうなほど鋭利な眼差しで見つめていた。頬にはらりと掛かった一条の毛すら煩わしく、白い手の甲で払いのける。

「花魁、何か怒っちゃいやせんかイ」

みつはハッとして表情を和らげ、

「何言うの、徳蔵。道中が久しぶりすぎて緊張してるだけよ」

「そうですかい、そうだよなア。こねえに豪奢な屏風絵を贈られて、緊張しねえわきゃねえやナ」

背後には、渓斎英泉から贈られた見事な大屏風が立てられていた。夜には見世の間口に出して、ますます客を呼び込む心算である。

見上げるほどの大屏風には、水滸伝に登場する美人の一人、母夜叉孫二娘(ぼやしゃそんじじょう)が見事な英泉流の肉筆で描かれていた。

孫二娘は、切り盛りする居酒屋で金の匂いのする旅客を殺しては金品を盗み、死体を人肉饅頭にして売っていたという恐るべき毒婦である。

屏風には、また一人手に掛けようと企む孫二娘が、標的の男に向かって媚態を示す様子が巧みに描き出されている。女は唐風に髪をおろし、妖しく湿った陰翳のある眼差しで、男に微笑みかけている。英泉特有の歪(いびつ)な女の手が差し出すその杯にこそ、男の四肢を痺れさせる毒酒が注がれているのである。

みつは、鏡ごしに屏風を睨みつけた。

歪んだ匂香を醸す孫二娘のあやうさと、まんまと思惑に嵌められる旅客の滑稽。

うぶ毛まで丁寧に描き込まれている分、どちらも気味が悪いほどに、生々しい。

天晴れとしか言いようのない出来であった。

水滸伝は英泉が選びそうにもない雄々しい画題だが、彼はそれを見事に自己流に昇華させてみせたのだ。

貴重な「渓斎英泉の肉筆」見たさに岡本屋に揚がろうという客も既に居るらしい。

・・・・・・

さて、勝負の事である。

英泉と国芳、八朔の夜に評判を取った方が勝ちと決めて始めたこの勝負。

一方の国芳の作品は、未だ届かない。

みつの不安は、胡粉の粉を紙上に散らすようにぱたぱたと少しずつ、しかし今となってはもはや拭いがたいほどに厚みを増している。

髪結いの徳蔵はみつの強張った肩を軽く揉みほぐしてから次の間に移動して行った。入れ替わるように、妹女郎の美のるがみつの着付けのために入ってくる。新造の美のるは鮮やかな青花の鱗紋地に鯉の滝登りの図を染め抜いた美しい振袖の裾を引き、きなり銀の花唐草の帯を前で締め、すっかり洒脱に仕上がっていた。

「まだ、国芳はんの絵は届かないかえ」

「・・・・・・うん、姐さん。届かないの」

美のるは泣きそうな顔で言った。

「そっか」

「姐さんが渓斎英泉の馴染みになるって決めたんなら仕方ないけど、あたし、やっぱり姐さんの花嫁道中はあの人のためにして欲しかった」

みつが国芳に惚れていることを知る美のるが、綺麗に化粧した小粒な目にきらきら光る涙を溜めて言った。

「あたしはもう充分すぎるくらいに幸せだよ。美のるみたいな可愛い妹が居て、こんな綺麗な白無垢用意してもらえて、道中までさせてもらえるんだからさ」

背後の衣紋掛けに吊るされた純白の白無垢を振り返り、みつはしみじみと言った。

寛政の改革以来、道中の数も取り締まられて、今は多くの若い女郎が誰に知られることもなく吉原の片隅で毎日ひっそりと初花を散らしてゆく時代だ。そんな中で白無垢姿の八朔に花魁道中ができるのはほんの一握の女郎のみであった。

白無垢は、月下美人の花開くがごとく光を発しながら、みつが袖を通す時を静かに待ちわびている。

八月朔日。

今日、みつはこの白無垢に身を包み、女郎になったその日以来の花魁道中をする。

向かう先は渓斎英泉の待つ引手茶屋だ。

結局、夕刻になっても国芳からの絵は届かなかった。

英泉の不戦勝である。

みつはついに、英泉と契りを結ぶ。

「もし姐さんの白無垢を見たら、あの人は何て言うだろう。喜ぶだろうね」

国芳の事を、美のるがそんなふうに言った。

みつは何も答えずに静かに美のるに微笑みかけ、子どものような細い手で妹の手を握った。

「姐さん」

美のるの目から涙がぽろぽろところげ落ちた。

「なあんで美のるが泣くのさ。笑って。ね。泣き顔じゃ、折角目尻に差した紅が流れちまうよ」

「だって、姐さんが泣かないから。・・・・・・」

駄々っ子のように首を振る美のるの顔を無理やり押さえて目元を袖口で拭ってやると、美のるは泣き笑いになった。それを見たみつは大きく頷いた。

「うん!やっぱり笑った方が可愛い。さ、早く化粧直して着付けを手伝ってつくんな」

そうだね、と美のるは頷いた。

「今日は姐さん、花嫁さんだものね」

あたしも、とびきり綺麗にしなきゃね。

(花嫁、か)。・・・・・・

みつは目をしばしば瞬いた。

自分の事ではないように、遠い響きだ。

花魁だなんだと肩肘張って見せても、女郎には、その言葉は眩しすぎた。

化粧が済み、美のるの手を借りて最後に白無垢に袖を通そうとした時、うわあっ、と廊下から叫び声がして、ドタアンと人の転ぶ音がした。今のは、誰が聞いても遣り手の声だ。

「どうしたの、お姐はん」

みつと美のるが慌てて襖を開くと、

「ふふふ」

「うふふっ」

ひっくり返った遣り手の傍で、禿(かむろ)たちが口もとを袂で覆って楽しそうに笑っていた。全員みつが仕立てた揃いの白い袷を着て、八人寄り集まるとたまらなく可愛らしい。

「お姐はん!」

みつが慌てて遣り手を抱き起こした。

「何があったの?」

「くちびるが、くちびるが!」

遣り手が子どもたちを指差して、わなわなと身体を震わせた。

「くちびる?」

みつが子どものくちびるに目を遣ると、

「あっ!」

にこにこ笑う禿たちの下くちびるという下くちびる全てがてらてら濃く光っていた。

「真似したのね!」

そういえば夏に、子どもたちに幾つか紅猪口(べにちょこ)を与えたのを忘れていた。

「ふふふっ」

「アハハ!」

子どもたちは無邪気に笑った。

立ち上がった遣り手が頭から煙が出そうなほど怒っているのもお構い無しで、

「花魁と、お揃い!」

「花魁を手本にしただけでありんす」

と口々に言った。

「ごめんなさい、お姐はん。あたしの所為だわ」

みつは微笑(わら)って謝った。遣り手には申し訳ないと思うものの、道中を前にいつになくはしゃいでいる子どもたちを見ると、みつは微笑みをこぼさずには居られなかった。

怒り狂う遣り手の声を聞きつけて、背後の廻し部屋から妹女郎たちが出て来、同時に一階からお内儀も上がってきた。

「何々、どうしたの」

そう言って近づいてきた妹女郎たちの下くちびるも、てらてらと光っている。

「おめえらもかい!」

遣り手はひっくり返った。

「え、何が?」

「そのくちびる!なんだね、流行ってんのかい⁉」

「下くちびるだけ濃くして玉虫色に光らせるの、紫野姐さんがやっていたのが粋だったから真似したんだ」

「娑婆じゃア、笹色紅とかいうんだって」

若い女郎たちが子どもよりも喧(やかま)しく話すので、遣り手もついに怒る気をなくして、

「そうかい、そうかい!そうまで言うならもう、良いよ!おめえら、そのくちびるで紫野にあやかって、たあんと稼いでくるんだよ!今日は八朔だからね!」

「無理だよ、くちびるのかたちが紫野姐さんとは全然違げえもの!」

いつもお茶っ挽きの妹女郎がからりと明るく笑って言い返したために、皆が頷いて大笑いした。

驚いた事に、遣り手ですら噴き出しそうになったのか、必死に堪えて口を歪ませていた。

岡本屋で、大人も子どもも寄り集まってこんなに笑い声が響いたのは、みつが知る限り、初めての出来事であった。

作・十返舎一九/絵・歌麿「青楼絵抄年中行事 八朔の図」国立国会図書館蔵

(ここも、良い方に変わりつつあるのかもしれない)・・・・・・

否、むしろ変わったのは、この吉原を見つめるみつの眼差しかもしれない。

不思議と、国芳を恨む気持ちは湧かなかった。

みつは、いつか吉原中がこんな風に笑顔に溢れる日が来ればいいと、はじめてそんな事を思った。そして、みつの知らない吉原の外の江戸の町も。そこには国芳が生きている。

(これで、良かったのだ)

改めて神聖な白無垢に袖を通した時、みつは天に祈るように瞼をそっと閉じた。

(何があっても、どんなに世が変わっても、人の胸の内に、希望という灯は燈り続けるように)

そのためにこそ、みつは吉原遊廓に生き、国芳は娑婆の世に生きる。

みつは吉原花魁として、国芳は浮世絵師としてこの江戸のどこか別々の場所で人の胸の内に灯を灯し続ける。

それでいい。

二人は、永遠に同じ方向を向いて生きてゆける。

美のるがまた静かにはらはら涙を落としているのを、みつは見ない振りした。

「花魁、こいつあ魂消(たまげ)た。俺が知っているあのお転婆は、一体エ誰だったんでしょうね」

道中で肩貸しを務める若い衆の直吉が、みつの前に現れて憎まれ口を叩いたが、口とは裏腹に頬はほのぼのと桃に染まり、自分が肩を貸す紫野花魁にうっとりと見惚れている。

直吉自身も頭には吉原被り、白地を半分紺に染め抜いた浴衣をすらりと着流し、腰先に帯をきゅっと締めた姿がひどく様になっていて、新造たちが騒いだ。いよいよ花魁の花嫁道中という雰囲気が、岡本屋全体が高揚させている。

・・・・・・

「ねえ、お母はん」。

高さ六寸の三枚歯に足を通し、岡本屋の土間を出る直前、みつは見送るお内儀に話しかけた。

「何だい」

「お父はんと一緒になる前、お働きしていた頃、本気で男の人に惚れちゃった事、ある?」

お内儀がまあるい頬でふっと柔らかく笑った。

「あるさ、何度も」

お内儀も、元は女郎である。こっそりそう言った後、遠い目をした。

「間夫がなければ女郎は闇、ってね。何度も何度も裏切られて傷ついた。それでも懲りずに、今もまだこんなところに居る。可笑しいね」

(今の旦那より、もっと惚れた人が居たんだろうか。・・・・・・)

女郎と一緒になるという約束を律儀に守る男など、噺家の作った調子のいい嘘だ。その事は、お内儀が一番知っている。少し淋しげに笑ったお内儀に、みつは凛として言った。

「ちっとも可笑しくなんかない。お母はんは、立派な人だって、ずっと前から知ってた」

お内儀は思わずほろりとして、みつの頬を淡く撫でた。

「おめえ、綺麗だよ。今まであたしが見てきた、おめえの姐さんたち全部合わせても、一番綺麗」

「ありがとう、お母はん」

みつは薄墨の美しい目で、真っ直ぐお内儀を見つめた。

「なんだかまあ、おめえ、ほんに嫁に行くみてえだねえ」

お内儀がしみじみ言うので、みつは笑って重い頭を横に振った。

「大丈夫よ。あたし、ずっとここに、岡本屋に居るわ」

例え渓斎英泉に身請けを申し込まれたとしても、決して承知しない。するはずもない。

「紫野」、

「行っておいで。・・・・・・」

みつはかすかに微笑んで、

「行ってきます」。

空の向こうにまで鳴り渡るシャンシャンという清らかな鈴の音が、夜の帳を下ろした。吉原遊廓の全ての見世に燈が灯り、格子の中には白粉の匂いに身を包んだ色とりどりの女郎が並ぶ。

葛飾応為『吉原格子先之図』Wikipediaより

みつは肩貸しの直吉の肩に、そっと手を置いた。初めて出会った時は棒切れのようだったその肩はいつのまにか、花魁をも支える頼もしい肩になっている。その首筋に、みつは一言、声を掛けた。

「直坊、行こう」。・・・・・・

「紫野花魁、御成アりイ」

岡本屋の提灯を提げた金棒引きの男衆がゆっくり、金棒を鳴らしながら歩き始めた。

京町一丁目岡本屋、紫野花魁の一世一代の道中がようやく、始まる。

岡本屋ののれんをくぐるととんでもない数の見物人が押し合いへし合い、紫野花魁の道中を見に押しかけていた。

お内儀手ずから仕込まれた外八文字を踏んで京町一丁目の木戸門をくぐり、並んだ行燈の灯がおぼろに霞む仲之町に出る。

その時だった。

「紫野花魁、日本一!」

見物人の一人が、芝居の大向こうのような声を発してから、手に持っていた紙をばっと掲げた。それに続いて、見物人が次々にそれぞれ手に持った紙をみつに向かって掲げ始めた。

(え・・・・・・?)

色のないみつの視界が、じんわり、色づいてづいてゆく。

自分の歩む道すじに、無数の見物人の手によって掲げられた百にもそれ以上にも見える数多の紙を見て泣きそうになった。

(これが、国芳はんの。・・・・・・)

その一枚一枚が、国芳がみつのために描きあげた作品だったのだ。

白無垢の紫野花魁の歩む道すじを色鮮やかに照らす、百八枚の水滸伝の豪傑。

どれもが、少し前まで稚拙だった国芳の筆とは異なっていた。

国芳は、確かな筆運びで躍動する豪傑の肉体を捉え、恐ろしいほどの緻密さで髪の毛筋と刺青までもを描き込んでいた。

そして様々な濃淡に磨り分けられた墨によって描かれた細やかな線が、行燈の薄明かりに照らされて鮮明になったり消えたりした。

みつは思った。

国芳の目を通して見た浮世は、いつの時もこんなにも眩しかったのだと。

・・・・・・

秋の雪。

八朔の日の花魁の白無垢を雪に例えて、人はそう呼んだ。

今、みつの薄墨の瞳からこぼれる雪の華ような涙が風に攫われて空に舞う。

泣いている、紫野花魁が瞬きもせずに泣いているぞ、と最前で国芳の絵を掲げている遊客たちが嬉しそうに声を上げた。

泣いている、という声を聞きつけて、直吉が振り返らずにそっと言った。

「勝ちやしたね、花魁。・・・・・・」

ふれる英泉の立派な屏風絵よりも、すぐに手に取れる頼りない薄い紙にびっしり濃厚に描き込まれた国芳の絵が確かに江戸の人々の心を動かしたのだと、みつは八文字を踏みながら思った。

岡本屋紫野花魁の名を刻んだ提灯が、厳かに仲之町を進んでゆく。

・・・・・・

引手茶屋の間口に、壁にもたれて腕組みをしている一人の男が見えた。手ぬぐいを被っているために、くちもとしか見えない。

それでもみつには分かった。

「国芳はん」。

みつは直吉にも聞き取れないほど小さく、その名を呼んだ。

「国芳はん」

今度は少し大きく呼んだ。直吉の肩がほんの僅かに動揺したのにも気が付かないほど、みつは夢中でその影をめざして外八文字を踏んだ。

腕組みをしていた男が、ついとあごを上げた。

「おみつ。・・・・・・」

男のくちびるがかすかにそう動き、そしてふっと柔らかい笑みをこぼした。

そして男はふらりと、地面にくずれ落ちた。

「国芳はん!」・・・・・・

みつは直吉の肩から手を離し、三枚歯の高下駄も、たっぷりふきの付いた真っ白な仕掛けも脱ぎ捨てて、ふわりと男の方に飛んだ。

「綺麗だよ、おみつ。白無垢、ほんに綺麗だ」・・・・・・

みつが抱き起こすと、男はそんな事を言った。

どれほどこん詰めて描いたのだろうか、その手は変形したようにたこが膨れ上がり、皮が破け血がこびりついていた。寝食もろくにしていなかったのかひどくやつれて頬はこけ、顔が土色をしていた。

男は上がらない腕でみつを抱きしめようとした。

「国芳はん。ありがとう。ほんに、ありがとう・・・・・・!」

みつの涙に誘われて、国芳の絵を掲げていた多くの見物人も涙を落とした。

引手茶屋の二階の窓に行儀悪く腰掛けて、静かにその様子を見下ろしていた渓斎英泉が、ぼそりと呟いた。

「コリャア、負けちまったな」。・・・・・・

あーしも頑張ったんだがねえ、と英泉はケケケッと妙に愉快そうな笑い声を立てた。

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