この差はなぜできた!?江戸の将軍は15代続き、鎌倉の将軍はわずか3代で断絶!
明暗が分かれた「2つの幕府」
江戸時代といえば、それまでの戦国時代と違い「太平の世」と呼ばれる戦乱のない時代が200年以上にわたって続きました。徳川家康が江戸幕府を開いてから慶應3(1867)年11月9日の大政奉還まで、江戸幕府の将軍は15代にも及びました。
一方、鎌倉幕府の将軍は源頼朝・頼家・実朝の3代までで嫡流が途絶え、幕府滅亡まで遠縁にあたる親王や摂関家から将軍を迎えていたものの、実際には執権・北条氏の天下となりました。
江戸幕府と鎌倉幕府は、なぜこのように存続自体の明暗がはっきりと分かれてしまったのでしょうか?
そこには、用意周到に後継者輩出のための備えをした徳川家康と、一族同士で次々と殺し合いをしてしまった源氏の違いがありました。
鎌倉幕府の将軍の嫡流がたった3代で途絶えてしまった原因は、「鎌倉右大臣」としても知られる3代将軍・源実朝に実子がなかったためでした。実朝は兄・頼家の子で甥にあたる公暁を猶子(兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶこと)として迎えていましたが、なんとその公暁に暗殺されてしまったのです。
これ以前にも、幕府内での内紛は絶えず、一触即発の状況が続いていました。幕府が成立したとはいえ、鎌倉時代はこのような武力による紛争が絶えない時代だったのです。
源頼朝の妻・政子の実家である北条氏により執権政治が確立されましたが、その後も元寇があり、また後醍醐天皇による倒幕運動もあり、ついに元弘3/正慶2(1333)年5月、鎌倉幕府は滅亡してしまいます。
もし、鎌倉幕府の将軍がしっかりとした後継者を確保できていたら、歴史は変わっていたかもしれませんね。
徳川御三家の目的とは?しかし、江戸幕府にも「お家断絶の危機」が全くなかったわけではありません。例えば「史上最年少で将軍となり、史上最年少で死去した将軍」といわれる7代将軍・家継は、満7歳に満たない幼さで亡くなってしまいました。
幼い家継に子供がいるはずもなく、この時も将軍の後継者をめぐりすったもんだの挙句、8代将軍・吉宗が就任したことは、歴史好きな皆さんならご存知の通りです。
この時に徳川家を「お家断絶」から救ったのは、「御三家」の存在でした。家康は、万が一にも将軍家に後継者となるべき男子がいなくなる事態に備え、自身の九男・義直(尾張徳川家)、十男・頼宣(紀州徳川家)、十一男・頼房(水戸徳川家)を、家康の直系の大名である「親藩」の中でも最高位とし、
「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家、または水戸家から養子を出す」
と決めたのでした。
後に8代将軍となった吉宗によって、その御三家の後継者を確実にするための「御三卿」も立てられました。江戸幕府が長い間存続できた背景には、このような工夫があったのですね。
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