天下人・家康も恐れをなした!?妖刀「村正」と徳川家にまつわる因縁とは (2/5ページ)

Japaaan

三河との国境からほど近い守山城(現:愛知県名古屋市守山区)を治める織田孫三郎信光(おだ まごさぶろう のぶみつ)は信秀の弟でありながら清康に内応(寝返る約束)しており、それで清康も尾張進攻に踏み切ったのですが、この時、清康の陣中に不穏な噂が流れました。

阿部大蔵定吉(あべ おおくら さだよし)が織田方に内応しているらしい」

これは清康の叔父でありながら織田方へ内通していた松平内膳信定(まつだいら ないぜん のぶさだ)が流したとも言われ、疑心暗鬼に陥らせて結束を乱すための策略でした。

しかし豪胆で鳴る清康のこと、「大蔵はそんな不義をする武士ではないし、万が一裏切るようなら、まとめて討てばよかろう」と、気にもしませんでした。こういう態度に清康の度量と矜持がうかがわれます。

とは言え「火のないところに煙は立たぬ」と言うように、一度噂が立ってしまうと、疑いの目で見る者も少なからず出て来ます。

つまらぬ噂で多年の忠勤を汚された定吉は悔しくてならず、嫡男の弥七郎正豊(やしちろう まさとよ)に起請文(きしょうもん。神仏に対する誓約書)を託しました。

「もし、それがしが殺された場合、この起請文を提出して疑いを晴らして欲しい」

かくして12月5日の朝、本陣の近くで馬が暴れる騒ぎが起きました。

「すわ、父上が討たれたか!」

とっさの事で逆上した弥七郎は、起請文のことも忘れて愛刀「村正」を押っ取ると本陣に殴り込むなり、清康を斬り殺してしまいました。

「おのれ、乱心者!」

弥七郎は駆けつけた清康の近臣・植村新六郎氏明(うえむら しんろくろう うじあき)によって成敗されましたが、後から事件の顛末と弥七郎の勘違いを知らされた定吉の失意は、察するに余りあります。

大将を失った松平方は敗れ去り、これが後世にいう「守山崩れ」。

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