清原和博は一晩500万円! プロ野球「夜遊び“剛速球”伝説」
球界レジェンドが最も輝いたのは、“夜中のダイヤモンド”!? 規格外すぎる飲みっぷりをプレイバック!
「つくづく我々は、いい時代に現役やってたなって思いますよ」 プロ野球OBで野球解説者の江本孟紀氏がこう語るように、かつてプロ野球選手といえば、“豪快な夜遊び”が当たり前だった。「夜にゲームが終わったら街に繰り出し、朝まで飲むなんて日常茶飯事。ただ、朝帰りしても、みんな、ちゃんと自分のやり方で酒を抜いていた。試合前、ひたすらランニングしている選手がいたら、“アイツ飲みすぎたな”なんてピンと来たもんですよ」(前同)
また、同じく野球解説者の金村義明氏も、現役当時の夜遊び事情を楽しそうに、こう振り返る。「北海道遠征なんてうれしかったですよ。食べ物も酒もうまいし、お姉さんはキレイ(笑)。試合が終わると、みんな夜の街に散っていくんです。それで明け方、中央市場で寿司を食べてシメる。そこから仮眠してデーゲームに備えていましたね」
最近のプロ野球界は、選手のアスリート化が進み、オフですらストイックな生活を送る者も多い。そんな姿勢が称賛に値するのはもちろんだが、その一方、かつての豪傑たちには、プレー以外での魅力や面白みがあったのもまた事実。そこで今回は、今なお語り継がれる、愛すべきプロ野球選手たちの「夜遊び伝説」をひもといていこう。
長いプロ野球史の中でも、記者やOBが「ハンパなかった」と口をそろえるのは、西鉄ライオンズの面々だ。“野武士軍団”とも呼ばれた彼らは遊びの面でも、とにかく豪快。象徴的なのは、春キャンプでの逸話だ。「朝はランニングから始まるんですが、街を一周して宿舎に戻ると、出発したときから人数が倍に増えている。つまり、街で飲んでいて帰ってこなかった選手が、ランニングの列に次々と合流していたんです(笑)」(当時を知る元スポーツ紙記者)
特にすごかったのは、当時きってのスーパースター“青バット”の故・大下弘。「大下さんの場合、毎日ランニングに合流する場所が違う。甘いマスクの大下さんはモテモテで、毎晩違うところに“お泊まり”していたわけです。アッチのほうもケタ違いでした」(前同)
■ビール一気飲みの勝者が1軍!?
モテ男といえば、故・仰木彬も負けてはいない。西鉄では大下、中西太、豊田泰光といった大物の陰に隠れていたが、端正な顔立ちとスマートさで、博多ではモテにモテたという。「夜の街に出れば、お店の女性から毎晩引っ張りだこ。当時の三原監督が“真っすぐ家に帰ってバットを振れば、必ず3割バッターになれるのに”とボヤいていたそうです」(球界事情通)
ちなみに仰木は現役時代、一度も3割をマークすることはなかった……。指導者になっても、その夜遊びは健在だった。「仰木監督は、チームに門限や行動制限を絶対設けなかった。というのも、仰木さん自身が真っ先に破ってしまうから(笑)。試合が終わると、誰より先に街へ繰り出したそうですよ」(スポーツ紙ベテラン記者)
仰木監督の下でプレーした経験がある金村氏も、驚きのエピソードを明かす。「近鉄時代、チームで札幌のビール園に行ったんです。そこで仰木監督がビールの一気飲み大会を開いて“一番早く飲めたヤツが1軍や”と本気であおった。当落線上の選手はもう必死ですよ。吉井(理人)なんか下戸なのに無理に飲んで、ぶっ倒れていましたからね」 これがシーズン真っ最中の出来事というからスゴイ。
西鉄では、大エースの故・稲尾和久にも伝説が。舞台は1958年の日本シリーズ。3連敗から稲尾が4連投で4連勝を挙げ、“神様仏様稲尾様”の名言が生まれた、あの巨人戦だ。西鉄が3連敗目を喫した翌日は雨天中止。スポーツ各紙は主力選手を取材しようと宿舎に向かったが、エースの稲尾は宿を出たきり、全然戻ってこない。
「深夜になって、やっと稲尾がタクシーで帰ってきた。でも、ベロベロに泥酔していて、話を聞くどころか、歩くのだって、ひと苦労。こりゃあダメだと、取材を諦めたんです」(元記者)
ところが翌日、14時からの試合で先発マウンドに立ったのは稲尾。9回を完投し、見事勝ち投手となった。「担当記者を通して、事前に稲尾の状態を聞いていた巨人の水原監督は、“稲尾は本当に飲みに行っていたのか”なんて、試合後、皮肉を言っていましたね」(前同)
■工藤公康らは東尾修の教えを真に受けて
そんな野武士軍団の豪快な遊びっぷりは、黄金期の西武ライオンズへと受け継がれる。もともと西鉄入団だった東尾修が、売り出し中の若手後輩投手・工藤公康、渡辺久信に“夜遊び術”を徹底的に叩き込んだのだ。
「東尾は、野球で頑張るには“いい酒を飲んで、いい車に乗って、いい家に住む。そしてキレイな娘とつきあうことだ”と、2人に説いていたそうです」(スポーツライター)
工藤と渡辺は、東尾の教えを忠実に実践。ナイターが終わると、当時流行していた「DCブランド」の洋服に身を包み、寮のある埼玉・所沢からタクシーで六本木へと向かった。「以前、あるテレビ番組で2人は当時の派手な夜遊びを振り返って、“週の半分は六本木に行っていた”と告白。東尾の教えを、すっかり真に受けたせいだと笑って話していました」(前同)
当時、まだ新人だった清原和博も、そんな2人のお供をさせられていた。「当時はバブル全盛期。帰りのタクシーがなかなかつかまらないときには、“所沢まで”と書いた紙を清原に持たせて、交差点に立たせていたそうです」(同)
ナイター後に遠く離れた六本木まで繰り出すのだから、帰ってくるのは、もちろん朝。門限破りの罰金も辞さず……と根性も据わっていたようだ。そんな工藤、渡辺、清原の自由奔放なキャラクターは“新人類”とも呼ばれ、当時の流行語大賞も受賞。野球以外の面でも、世間の注目を集める存在となったのだから素晴らしい。
その後、工藤と渡辺は結婚を機に落ち着くが、一方の清原は、巨人移籍後に元木大介、後藤孝志らと“清原軍団”を結成。西武時代のような豪快な夜遊びを続けていた。「高級クラブでワインを24本、ドンペリを6本空け、100万円もの支払いをキャッシュで済ませたこともあるそうです。飲み代の最高額は一晩で500万円だとか……」(球界事情通)
■巨人では長嶋茂雄、王貞治らスーパースターも!
ただ、他の巨人選手を見てみると、他球団に比べて派手な夜遊びエピソードは、あまり聞こえてこない。これはやはり、「巨人軍は常に紳士たれ」というモットーの影響なのか。「巨人の選手だって、昔から裏ではしっかりと遊んでいる。あの“ON”長嶋茂雄、王貞治の両スーパースターも、けっして聖人君子ではありませんでしたよ」(元巨人番記者)
たとえば、長嶋のプロ1年目。オープン戦の試合前、西鉄の豊田が長嶋に“おい、後で中洲に飲みに連れて行ってやる”と、軽く声をかけたことがあった。「ゲーム終盤、ヒットで出塁した長嶋がすぐに二盗。ベースに入った豊田に“さっきの話、本当でしょうね”と話しかけたといいます。試合展開的には盗塁なんて絶対しない場面。長嶋は、わざわざ念押しのために盗塁したんです。豊田は、“コイツは大物になる”と驚いたそうですよ」(前同) 若かりしミスターは、“オトナの夜の遊び”に興味深々だった!?
そして一方、世界の王。恩師・荒川博と夜な夜なマンツーマンの猛練習をしていたことで知られるが、意外に、ちゃんと青春も謳歌していたようだ。「まだ王さんが福岡で監督をする前、銀座でお茶をしていたら“このあたりにはなじみの店が何軒もあって、よくハシゴしていたよ”と、懐かしそうに語っていたね。けっこう酒豪だったみたい」(球界関係者)
しかし巨人ナインの中には、他球団の豪傑顔負けのとんでもない人物もいた。“悪太郎”こと堀内恒夫だ。新人の頃から門限破りの常習犯。素行の悪さは“巨人屈指”だった。「朝方、合宿所に帰ってきた堀内が、ある部屋の窓を叩くと、スッと窓が開くんです。堀内はそこから中に入り、部屋に置いてあったジャージに着替えて、さも、ずっと合宿所にいたかのように部屋に戻る。遊びに出る前に、門限破りの準備をしておくんですから、なかなかズル賢いですよね(笑)。もっとも、寮長はそれもお見通しだったようですが」(元番記者)
さて、ここまで見てきたのは、いずれも豪快すぎる夜遊びエピソードばかり。しかし、忘れてならないのは、どの選手もプロ野球で優れた成績を残した“超一流”であるということだ。「かつての球界には、“プロ野球選手たるもの、どこで何をしようが、グラウンドで結果を出せばいい”という考え方が根底にありました。今ではありえないような遊び方をしていても、当時の選手のプロ意識は、むしろ非常に高かったと言えます」(前出のベテラン記者)
遊ぶためには、仕事も一流でなくてはいけない。それを地で行くのが、広島の故・衣笠祥雄だった。衣笠が江夏豊と広島の最高級クラブで飲んでいるとき突然、衣笠が席を離れ、なかなか戻ってこない。ホステスたちが大丈夫かと心配しても、江夏は“気にせんでいい”と平気な顔だったという。「1時間以上たって、ようやく衣笠が席に戻ってきた。また何事もなかったかのように飲み始めたといいますが、実はこの間、衣笠は一度宿舎に帰り、素振りをしていたんだそうです。江夏は、それを知っていたんでしょうね」(球界事情通)
酒を飲んでも、本業のことは忘れない。まさにプロ野球選手の鑑だろう。現在は、球界でもコンプライアンスの徹底が叫ばれ、世間の目も厳しい。冒頭の江本氏の発言ではないが、豪放磊落な“夜遊び”がしにくいご時勢なのは間違いないだろう。しかし、プロ野球選手は夢を売る商売。プレーはもちろん、球場以外でも我々を楽しませてくれるような豪傑の登場を期待したい!