お忍びで寄った農家の味に感動?江戸の三代将軍・徳川家光はお忍び歩きが好きだった?

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お忍びで寄った農家の味に感動?江戸の三代将軍・徳川家光はお忍び歩きが好きだった?

三代将軍・徳川家光は『忍び旅』なんてできたの?

皆さんは、『将軍家光忍び旅』をご存知でしょうか?1990年代前半に放映されていた、江戸の三代将軍・徳川家光を主人公とした時代劇です。昭和53年~平成14年までレギュラー放送され、大人気だった『暴れん坊将軍』の休止中に放送されていたこともあり、覚えている方も多いかもしれませんね。

このドラマは、家光が無名の役者である「新吉」を影武者に仕立てた上で、「浪人・徳山竹之進」と名乗りお忍びでの旅をしていくストーリー。道中で庶民たちの暮らしに触れ、悪人を退治していき、その中に対抗勢力との対決もあったりと、盛りだくさんの内容でした。

将軍の行動が制限されるようになったのは四代将軍あたりから

ところで気になるのは、将軍である家光は「お忍び」で出歩くことが、本当にできたのか?ということ。

徳川家光像(金山寺蔵、岡山県立博物館寄託)/Wikipediaより

将軍と言えば、いわば当時の武家社会の頂点であり、それだけに制限だらけで自由のない生活を余儀なくされていた印象があります。大奥の女性と夜を共にするにも、様々な決まりを守らなくてはならなかった上、歴代将軍の命日のように床入りできない日もあったくらいです。

床入りも結構大変な江戸時代の大奥の「夜のお作法」。将軍のハーレムとはいかなかった

実は将軍の自由が厳しく制限されるようになったのは、四代将軍・家綱あたりからのことでした。
その厳しさといったら、現代の私たちから見ると「常軌を逸している」と言っても過言ではないくらい!

例えば、将軍が外出するときには「将軍の通り道は掃除をし、通り道にあたる家々は戸を閉める」「商店は営業中止」など、さまざまな制約が設けられていました。

でも家光の頃はまだそこまで厳しい制約はなく、将軍といえどもかなり自由に外を出歩けたのです。

家光のお忍び歩きは落語にもなっていた

家光は、実際にお忍びで江戸の城下やその近郊を歩いていたことが知られ、『目黒のさんま』という落語の殿様のモデルになったともいわれています。

この落語の内容は、お忍びで目黒へ鷹狩りに出かけた「殿様」が、途中で立ち寄った農家で生まれて初めて「あつあつのサンマの塩焼き」を食べ、そのおいしさに感動して城でも同じものを所望します。ところが城で出てくるサンマの塩焼きは冷えていてまずかったため「サンマは目黒に限る」と言ったというもの。

家光は実際に鷹狩りの際に農民が営む茶屋で休憩することもありました。それどころか、彼が異母弟である保科正之の存在を知り会津23万石へ取り立てたのも、目黒での鷹狩りにお忍びで出かけたことがきっかけだったのです。

また彼は「お忍び」での外出の時だけでなく、行き先が決まっている外出の時にも、突然行き先を変えることがよくあったとのこと。

さすがにドラマのように家光が江戸から京へ上洛したり(パート1)、京から中山道を通って江戸へ戻ったり(パート2)といった大がかりな「忍び旅」は難しかったかもしれませんが、農民や町人が身分を隠した家光こと「徳山竹之進」とバッタリ遭遇する機会は、意外に多かったのかもしれませんね。

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