縁切り寺という強硬手段!妻からの離婚はかなり難しかった江戸時代の離婚事情

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縁切り寺という強硬手段!妻からの離婚はかなり難しかった江戸時代の離婚事情

江戸時代、結婚するときはとくに婚姻届を提出する必要もなく、気軽に夫婦になることができましたが、離婚するのは大変でした。幕府の法によって、離婚する際には離縁状が必要だと定められていたからです。

もし、離縁状なしで離婚した場合は、夫婦ともに罰せられました。また離縁状を持たずに妻が再婚した場合は、重婚罪・姦通罪に問われました。

離縁状は、離婚する理由、のち誰と再婚してもかまわない、といったことを三行半にわたって書き記したことから、一般に「三行半(みくだりはん)」と呼ばれていました。ただし、この三行半は必ず夫が書く必要がありました。

文字が書けないものは、文章の代わりに「鎌と椀」の絵を書いて、意志を示しました。つまり「かまわん」ということです。

江戸時代を通じて書かれた三行半文面の例

このように書いてしまうと、一般的に江戸時代の英魂は夫が妻を追い出すことが多かったと思われがちですが、実際はそうではありませんでした。

夫側にはなかなか離婚に応じられない理由がありました。例えば、妻が持参金とともに嫁いできたとき、夫側から離婚する場合はそれを返す義務がありました。また、妻に去られた夫は甲斐性なしとみなされ、再婚することも難しかったようです。

このような理由から、夫側はなかなか三行半を書こうとしなかったというのが実情だったようです。

夫に不行跡があっても世間的には離婚が認められない

当時、妻から離婚を申し出ることができたのは、「夫が重罪を犯す」「夫が10か月以上失踪する」「実家に帰って数年間、夫からの連絡がない」という場合のみでした。それ以外の理由では、たとえ夫に不行跡があったとしても世間的には離婚が認められなかったのです。

ところが、妻としてはこれでは困ります。三行半がなければ、再婚することもできません。そこで妻は無理やり夫に三行半を書かせ、それをもぎ取っていきました。なかには最初から離婚を想定し、「先渡し離縁状」を夫に書かせたうえで結婚する、という強かな女性もいたようです。

どうしても離婚できないときは「縁切寺」へ

どうしても夫が三行半を書いてくれない場合、妻は代官所や武家屋敷に駆け込んで離婚を訴え出るということもありました。それでも離婚できないときは、縁切寺へ駆け込むという強硬手段が認められていました。

縁切り寺にGO!江戸時代、女性から離婚したい時に離縁させてくれるお寺があった

江戸時代において、幕府が公認していた縁切寺は、鎌倉の東慶寺と上州新田(群馬県)の満徳寺という二つの寺でした。

夫は入れずむやみに連れ戻すこともできない縁切り寺

妻が縁切寺へ向かえば、それを阻止すべく夫が追いかけてきます。もし妻が寺へ入る直前で捕まってしまっても、その前に妻の持ち物、例えば草履やかんざしなどを寺の敷地内に投げ入れれば、寺に入ったとみなされました。妻が寺に入ったとみなされれば、夫といえども寺の敷地内に入ることはできず、むやみに連れ戻すこともできませんでした。

満徳寺の駆け込み門(Wikipediaより)

ただし、妻が無事に駆け込んでも、それで離婚が成立するわけではありません。まず、寺側が双方の主張を聞いたうえで、調停を行いました。晴れて離婚が成立した場合、夫が三行半を書いて妻に渡しました。

もしも調停で離婚が成立しなかった場合、妻はそのまま尼として寺で生活します。東慶寺では三年間、満徳寺では二年経過すれば離婚が成立したのです。

江戸時代は、離婚が割と頻繁に行われていたため、夫婦の財産は別々になっていたようです。

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