最終話【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第33話
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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第32話 文政十年、正月二日。長い長い永遠の夢が、千切れて落ちて、踏み付けられた。
二代歌川広重「燕」ボストン美術館蔵
■文政十年、正月
国芳は、吉原遊廓の大門を飛び出して駆けた。
腕には大きな花魁の仕掛(しかけ)を抱え、時には転んで血を流しても、破茶滅茶に駆けた。
鬢の毛は逆立ち、目は紅の涙が流れそうな程に血走っていた。
どこを目指しているのかも分からない。
ただ、ここでなければいい。
吉原遊廓(ここ)の存在しない何処かに、逃げ出したかった。
歌川広重「名所江戸百景 よし原日本堤」国立国会図書館蔵
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・
欲しいものは、全て手に入った。
文政九年の秋から刊行し始めた「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」は江戸で爆発的に売れた。
「通俗水滸伝豪傑百八人之一個九紋龍史進, 跳澗虎陳達」大英博物館蔵
今までに誰も描いた事のない、今にも紙の中から飛び出てくるような力強い筆致と、隙間なく描き込まれた精緻な衣服の模様や刺青の描写、画面に溢れる極彩色。
「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 花和尚魯智深初名魯達」ボストン美術館蔵
「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 黒旋風李逵」Wikipediaより
国芳の絵は、伝法者から子どもに至る全ての江戸っ子の心を掴んだのである。
その人気の凄まじさは、今まで多くの水滸伝作品を手掛けた戯作者・曲亭馬琴が手紙に強調するほどだった。
「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 扈三娘一丈青」大英博物館蔵
版元の加賀屋が抱える彫師摺師だけでは増刷が追いつかなくなり、他の地本問屋から腕の良い職人を借り出した。
初版の九紋龍史進(くもんりゅうししん)、花和尚魯智深(はなおしょうろちしん)、黒旋風李逵(こくせんぷうりき)、少し後に加えて扈三娘一丈青(こさんじょういちじょうせい)、行者武松(ぎょうじゃぶしょう)の五人の豪傑の版木は三度も彫り直した。まさに嬉しい悲鳴である。
「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 清河縣之産武松」大英博物館蔵
この異例の事態を受け、加賀屋は初版の五枚に続いて他の豪傑たちを順々に売り出した。それでもなお「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」は飛ぶ鳥を落とす勢いで売れている。それまでの「揃物」といえば三枚ほどで一揃いしたが、国芳の通俗水滸伝は浮世絵を何十枚規模で揃えて集めるという新しい楽しみを世に広めたのである。
今までに経験のない反響の大きさにほくほく顔の加賀屋吉兵衛は、
「百八人、全部、描いちまうか!」
などと言い出した。
まだ先の事は分からないが、
「いいですよ」
と国芳は答えている。
彼の中には既に次から次へと新しい構想が湧き出していた。水滸伝の豪傑たちが噴水のように頭の中を渦巻き、描いてくれと叫んでいるのだ。どれだけ大規模な企画になろうとも自分は応えられるという自負が、国芳にはある。
金子(かね)も出来た。
加賀屋から支払われる水滸伝の画料に加え、実家の実父母も国芳の成功を喜んでまとまった祝い金を出してくれ、みつを身請けするだけのものは手元に用意された。
更に国芳はみつを迎えるために、父の協力を得てたった一枚の仕掛を染め上げた。三枚の裾にはふき綿をたっぷり詰め、背中一面に豪奢な黒龍を大きく配した見事な花魁の仕掛である。色の見えないみつにもはっきり分かるように、黒の濃淡のみで見事に龍を染めあげ、裾の部分だけ緋色地に花色染めで輪っか模様を配した。
「女版、九紋龍史進だ」
国芳は満足に頷いた。
誰もが振り返る、美しい最後の花魁道中が目に浮かんだ。
みつがようやく、自分のものになる。
そう思うだけで胸が熱くなり、人知れずその仕掛を抱きしめた。
・・・・・・
そうして訪れた文政十年正月二日。
女郎たちの仕事始めの今日、初めてみつと出会ったこの日を選んで、国芳はついに正門から堂々とみつを迎えに行った。
身請け金と豪華な仕掛を抱えて。
はやる心を、抑えかねながら。

・・・・・・
なのに。
それだというのに。
「なんで、めえだけが居ねえんだよ・・・・・・」。
長い長い永遠の夢が、千切れて落ちて、泥々に踏み付けられた。
ぼろぼろと落ちる涙の行き場もない。
みつが、死んだ。
客の子を孕み、無理矢理鬼追い(堕胎)したのち体に力が入らなくなり、床から上がれぬまま衰弱して死んだという。
国芳は、膝からその場に頽(くずお)れた。
・・・・・・
「逝っちまったよ」
年の瀬に、さ。
岡本屋のお内儀が、がらんとしたみつの部屋の中央にへたりと力なく座り、障子窓の外を見ながら言った。
「大切な子だったんだ。あの子の母親もうちの看板女郎でね。腹に子が居着いたと分かった時にゃこっちも慌てたさ。散々堕ろせと説得したのに、母親が『嫌だ産むんだ』と聞かなくてね。十月(とつき)も休んであの子を産んで戻ってきた頃には借金も随分嵩んでたからね、前の倍くらい働くようになった。結局、無理がたたって鳥屋(とや)に就(つ)いちまって哀れな最期さ。借金と幼い紫野だけが残された。孫と思って大切に育てたよ。だからあの子が十二で色盲になった時、どうしてでも守り通してやんなきゃって」
「知ってたのか」
国芳が、ほとんど聞こえないほどの力ない声で訊いた。
「あたしだけはね。あの子は騙せてると思っていたろうけど」
ある時から、外に出るとやたら眩しそうに目を瞬くようになってね。色盲てえなア、陽の光が苦手なんだってね。幸いにしてほとんど外に出なくて良い引っ込み禿(かむろ)だったから、ちょうど良かったんだ。
「大変だったよ。ちょうど化粧を教え始める頃だったからさ。間違わないように何度も教えた。でもやっぱり苦手みたいだったね。そんな具合であの子、化粧っ気もあまりなかったんだ。だから、あの子がいきなり笹色紅(ささいろべに)を試した時はびっくりしたよ。間違って塗ったと思った。紫野が手前から化粧の色を楽しむ事なんて、今までだったら出来るはずもなかったから」。
ねえ、歌川はん。
あんたに出会って、紫野は確かに変わった。
「あの子に色を楽しむ事を教えたのは、あんただったんだね」・・・・・・。
最後はくちびるに紅を差す代わりに床の間に飾っていた紅のような赤い椿を持ってね、腹を痛めて苦しかったろうに安らかな顔で死んでいたよ。
色のないはずの椿が、もしかしたら最後は綺麗な紅に見えたのかもしれない。
お内儀はそう言って国芳に向かって紅椿を差し出して、微笑した。
「死んでいるのに、あの子とても綺麗だった・・・・・・」。
嵩岳堂主人「生写四十八鷹 じゆりん 椿(部分)」国立国会図書館蔵
蒼白な国芳は、女の紅のように赤い椿を受け取った。
指が、震えた。
聞けば聞くほど、ぞっとする。
呼吸も上手くいかないほどの孤独と恐怖が国芳を締め付けた。
嫌だ。
嘘だ。
これが現実な筈は、ない。・・・・・・
そういえば、とお内儀が行李(こうり)の中から何かを取り出した。
「あの子の行李の中から、こんなものが出てきたよ」
お内儀が取り出したのは、今までに刊行された「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」であった。一つも欠ける事なくすべて揃っている。
「若い衆の直吉が紫野のためにせっせと小間使いに出てると思ったら、全部あんたの絵を買っていたんだねえ」
さらにその下から何か出てきた。
三年前の今日、国芳がみつに出会った日に手渡した史進の凧であった。当時は自信たっぷりだったが、今見ると確かに史進の描写が拙くぎこちない。構図も明白に豊国の模倣である。これではみつがつまらないと感じて当然だ。
「この凧、見覚えはあるかい」
「・・・・・・。」
「そうかい。違ったかい」、
お内儀は淋しそうに言った。
「あの子、なんの願いを掛けていたんだろうね」、
こんなぼろぼろの凧に。・・・・・・
国芳はその瞬間に部屋を飛び出していた。丹精込めて染め上げた重い仕掛を抱えて、引きずるようにしながら。
・・・・・・
嘘だ。
みつは充分に苦界で苦しんだのだ。
これからは、良い事ばかりが起こる筈だ。
きっと、おみつはどこかに隠れている。
きっと、生きている。
生きている。
生きて、そして、その先で誰よりも幸せになるのだ。
(わっちと二人で、幸せに・・・・・・ッ!)
・・・・・・
大門を飛び出し訳も分からず来た道を駆け戻り、気がつけば本所一ツ目橋の上に居た。
板目のひとつが浮いており、そこに足を引っ掛けて国芳は思わず仕掛を取り落とした。
(あっ)
その瞬間国芳は滑って転倒し、そのまま動けなくなった。
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・
どれほどうずくまっていたろうか。
「国芳はん」。
よく知っている小さな手が、肩を叩いた。
「国芳はん」
顔を上げると、女がそこに居た。
「おみつ・・・・・・!」
国芳は思い切り抱き締めた。
感触が、確かにあった。
「やっぱり、生きてたんじゃねえか!」
その言葉にみつは一言、
「・・・・・・ごめんね」
と首を横に振った。
「駄目だ」
「ごめんね、国芳はん」
「駄目だ、許さねえ!」
国芳は、駄々をこねる子どものように、地団駄を踏んだ。
「なんでも許すって言ったじゃない」
「死ぬ事も、許すなんて言ってねえ!」
「それはおかしいよ。だってあたしたち家族、でしょう?」
「許さなきゃ、いけねえのか」・・・・・・、
国芳は唸るように言った。
「死ぬ事も、許さなきゃいけねえのか・・・・・・!?」
みつはただ、無口に微笑むばかりであった。
「めえを失ってもまだ、わっちゃア知りもしねえ誰かを笑わせなきゃいけねえのか。希望だの夢だの、そんなもんを描かなきゃいけねえのか。そんなのアまっぴらごめんだ。わっちゃア、めえが居ねエ世の中なんざア!」
どうでもいい・・・・・・!
そう言いかけた国芳のくちびるを、みつのくちびるがそっと塞いだ。
「馬鹿ねえ。国芳はんは本当に馬鹿」・・・・・・
くちびるを離したみつは、くすっと少女のように可憐に笑った。
「笑わせなきゃいけないじゃない。笑わせたい、でしょう」。
国芳は袈裟懸けに斬りつけられたような表情で、みつの目を見つめた。
「江戸中を笑わせたいと、あんたが思っているんでしょう」。
ふと、顔が浮かんだ。
吉原遊廓で凧を受け取る幼い禿(かむろ)たちの喜ぶ顔。
加賀屋で国芳の絵を買い求める江戸の人々の輝く笑顔。
佐吉の顔、豊国の顔、国貞、国直、たくさんの兄弟子たちの顔、英泉の顔、北斎の顔。
今日までの人生の中で一点でも交わった顔が、次々に国芳の脳裏に浮かんだ。
「あんたはまだ、何も終わっちゃいない。浮世の夢はたった今、始まったの。あんたの中に渦巻いてる面白いもの、描きたいもの、やりたい事。あんたはまだ、何一つ出し切っちゃいないでしょう」、
みつが国芳のおでこをこつんと弾いた。
「もう充分だってくらいに笑いを取ってからこっちにおいで、お馬鹿はん」。
国芳はしばらく口をパクパクさせていたが、
「・・・・・・チクショウ」、
チクショウ。
「そんなに馬鹿馬鹿、言うんじゃねエや」
ようやくそれだけを掠(かす)れた声で言った。
「分アったよ」、
頷くと今度は、べそっかきの子供のように涙が後から後から溢れ始めた。
「めえが笑ってくれるなら、わっちゃア馬鹿にでも何にでもなってみせらア」、
泣きながら、国芳は誓った。
「めえが、この江戸の何処(どこ)かで笑って見ていてくれるなら・・・・・・ッ!」
嗚咽し洟(はな)を垂らし、江戸で一番情けないぐしゃぐしゃの男の顔がそこにあった。
その情けない男は、これ以降泣き言一つ漏らさず言葉通りに努力を重ね、やがて江戸で最も面白く奇想に溢れた浮世絵を生む男になるのである。
歌川国芳「相馬の古内裏」Wikipediaより
歌川国芳「源頼光公館土蜘作妖怪図」Wikipediaより
「みかけハこハゐが とんだいゝ人だ」Wikipediaより
「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」Wikipediaより
みつは全てを見透おしているかのように、とろけるほどの優しい笑みをし、すうっと国芳の腕の中から抜け出した。
「あたし、もう行かなきゃ。お母はんが待ってくれてるの・・・・・・」
「めえの、おっ母さんが?」
うん、と少し嬉しそうにみつは微笑んだ。
「待て。これを」、
国芳は抱えていた仕掛を差し出した。
「これを、羽織っていけ。わっちが染めた・・・・・・」
「国芳はん」、
出逢った時のままの、少女のような澄んだ声が、国芳の胸にすとんと落ちる。
「ありがとう」。
みつは国芳の染めた黒龍の仕掛を肩から羽織った。
「綺麗だ。おみつ、本当に綺麗だよ・・・・・・」
涙と洟を散らして褒める国芳に、みつは淡く微笑んだ。そして龍のうねる背を向け、振り返る事なく川の彼方へするすると進み始めた。
国芳は思わず手を伸ばして叫んだ。
行くな。
行くんじゃねエ。
「待っつくれ」、
行くな。
おみつ!
国芳は欄干から身を乗り出した。
「行くな!」
行くんじゃねえ。
わっちを一人にするのか。
もうちっとでいい。
もうちっとでいいから、傍にいておくれ・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・
どれほどか、時間が経った。
「兄さん!」
一人の少年が、橋に向かって叫びながらパタパタと駆けてきた。
欄干から身を乗り出していた国芳は一気に意識を引き戻されるようにゆっくりと声の方に顔を向けた。
目が合った瞬間、天から舞い降りたような美しい少年が円(つぶ)らかな目を更にまん丸にして国芳に縋り付いた。
「兄さん、大丈夫ですか!」
「・・・・・・。」
「あたし、そこの船宿の者です。たまたま二階から窓の外を見て、兄さんを見つけたんです。あの、邪推ですけど、飛び込もうとしてるんじゃないかって・・・・・・」
「・・・・・・。」
「あの、」
・・・・・・
「なアに、心配ねえさ」、
国芳はおろおろと狼狽する少年の身体を振り払った。そしてひらりと欄干から身体を離し、
「わっちゃア、生きる」。
「・・・・・・・」
「生きる」、と言った国芳を黙って見つめる少年の瞳は、よく見るとけぶるような幽玄の薄墨色であった。
その事に気がつくと、国芳は袂から唐突に真赤な冬椿を一枝、少年の前に差し出した。袂に入れていたために少し萎れてしまっている。
「この花、めえには何色に見える?」
「え?」
少年は透けるほど白い手を差し出し、それを受け取った。
「・・・・・・赤」
少年が不思議そうに答えた瞬間に、国芳はふはっと力が抜けたように笑った。何故だか、涙が滲んだ。
「そうか」、
「赤に見えるか」。
「綺麗な、濃赤です」
「・・・・・・そうか」
よかった。・・・・・・
そう言った国芳の胸にじんわりと微温(ぬる)い失望と安堵が広がった。
国芳は目尻の滴を払うと、
「それ、めえにやるよ」
花を差し出し、口もとを歪めて微笑(わら)った。
「え?誰かにあげるんじゃ・・・・・・」
国芳は首を横に振った。
「逆だ。わっちの大事な人から貰った。めえはそいつによッく似てやがるから、わっちの代わりに受け取っちくれ」
「そんなら、あたしが大事にします」
少年は、赤い椿を手のひらに受け取り、にっこりした。
その時、空からふわり。
白いものが落ちてきて、肌の上でじわっと溶けた。
「雪だ」。・・・・・・
国芳は手のひらを上に向けて、言った。
「兄さん、よければ今夜はあたしの部屋にお上がんなさい。正月は、泊まる人も居なくて。お代なぞ要りませんから」
「・・・・・・。」
男は一瞬躊躇(ためら)ったが、頷いて少年の後に従った。
船宿八幡屋の前まで来ると少年が暖簾を分け、その向こうに二人は見えなくなった。
空気が凛と澄んで、天から花の舞い降りる、それは美しい雪夜であった。
土屋光逸「羽田の雪」JAODBより
■文政十年 夏文政十年の夏が訪れた。
国芳は汗を滲ませながら、一刻以上も同じ姿勢で机に向かっている。
褌一丁の上に、禍々しい模様の褞袍(どてら)を引っ掛けるという奇妙な姿である。
渓斎英泉に仕立ててもらった地獄絵図の褞袍は綿を抜いてもさすがに蒸し暑そうだが、国芳は「仕事の時アこれがいい」と言う。
歌川国芳「名誉右に敵なし左甚五郎」(部分) Wikipediaより
肩ッ先に引っ掛けた細やかな刺繍の入った手ぬぐいは、見る角度やわずかな明度の変化で不思議な模様の変化を見せた。
「師匠、何描いてるんです」
芳雪の薄墨の目が、国芳の顔を覗き込んだ。
「ガキにゃア教えねエ」
国芳は、描いていたものをさっと隠した。
芳雪はああ、と手を叩いた。
「春画ですね」
「違エわ」
「じゃあ、なんです」
国芳は仕方なく描いていたものを取り出した。
「あ、」
花魁だ。
芳雪はそう言って、桜貝のような可愛いくちびるで笑み笑みした。
「どこの花魁です」
「知らねエ」
国芳はそっぽを向いた。
「正月に出すから、描いてるだけだ」
浮世絵師の勝負は暑い夏に始まる。正月に出す摺物は夏に準備しはじめなければ間に合わないのだ。
「へえ。この花魁、綺麗な人だなあ。あ」、
芳雪が何かを思い出したように言った。
「これ、あの日に師匠が持ってた仕掛でしょう」
国芳は煙たそうに目を細め、
「雪、めえはもう、あっち行ってろ」
しっしっと芳雪を追い払った。
「あいな」
茶でも淹れますよ。
芳雪はそう言って手をひらひらさせた。
「あの日」、みつを失ったあの正月の夜から早くも半年以上が過ぎた。
芳雪、本名孝太郎は、その夜に橋の上で出会った少年である。偶然結んだ縁から国芳の弟子となり、一緒に棲むようになった。
齢十四の、美しい少年である。
薄墨の綺麗な目が、みつに少し似ていた。
今、国芳が魂を込めて描いているのは、久堅連「風俗女水滸伝」のうち「九紋龍史進」だ。
一人の花魁が頭には数えきれない簪を差し、黒龍を染め抜いた豪奢な仕掛に身を包み、朝焼けの空に見入るという構図である。
ようやく満足に描き上がったその時、外から声が飛んだ。
「佐吉が邪魔するよ、芳さん」
「あいよ、入エんな」
腰高障子を開いた佐吉は相変わらず身なりが良く、総絞りの浴衣をさらりと流している。その下の肌膚には国芳が絵付けした恐ろしい龍の紋々が息づいているのを、誰が見抜けようか。
佐吉は国芳の傍にどっかと腰かけ、開口一番こう言った。
「今年の玉菊は、紫揃えだってね」。
「ああ」
国芳も風の噂に聞いていた。
今年の吉原遊廓の玉菊灯籠は京町一丁目岡本屋の紫野花魁の早世を悼んで、仲之町の引手茶屋すべてが紫の灯籠を吊るし飾っているのだと。
その話を聞いても、国芳が吉原遊廓に出向く事はなかった。
彼はただ、昼夜も忘れて長屋の机上で花魁を描いた。
「綺麗だねエ」
佐吉は目を細めて紙上の花魁を見つめた。この絵に歌を添えるのは、狂歌師である佐吉の仕事だ。
「茶を淹れました」
芳雪が美しい翡翠色の茶を運んできた。国芳がこだわって手に入れた江戸では珍しい京の宇治茶である。
「ありがとう。アア綺麗な青だ」
一口呑み、
「少し気になってたんだが、芳雪はどんな絵を描くんだい」
佐吉が問うと、国芳は首を振った。
「こいつ、筆を渡すとわっちの絵を寸分違わず写しやがる」
「凄えや、さすが一番弟子。才があるんだねえ」
「才はあるが、聡すぎる。雪、めえはもっと」、
「馬鹿になれ、でしょう。師匠はいつもそればかり」
芳雪は困ったように赤い舌をちろりと出した。
「そうだ。馬鹿でなきゃア人の面白エと思うもんなんざ作れねエ。馬鹿になっちまえば誰もやらねえような事も怖くねエ、」・・・・・・
「そういえば」、
熱く語り始めた国芳を佐吉が遮った。
「さっき、江戸前に大鯨が打ち上がったって。そうそう。おいらアそれを教えに来たンだ」
「何ッ!」
国芳が飛びあがった。
首から下げている掛け守りの鎖が、しゃらんと鳴った。
芳雪も既に立ち上がって出る準備をしている。
「佐吉、それを早く言え。雪!さっさと準備しろ!滅多にねエんだ!急ぎゃがれ!」
「あい、師匠!」
「それとあと、おめえ、」
「矢立と紙でしょう?」
芳雪は袂から筆と草紙を取り出してひらひら振って見せた。
「アア、それだきゃ絶対に忘れんな。じゃあな!佐吉!わっちらアちょいと江戸前に出てくらア!」
三尺帯をキュッと締め直し、師弟が青嵐のように勢いよく陽光の中へ飛び出して行った。
佐吉が慌てて外を覗くと、既に居ない。
振り仰げば夏空が雲一つなく澄み渡って青い。
さて。
部屋に戻った佐吉は、ふいに机上に視線を吸いつけられた。
国芳が夢中で描いていたものがそのまま置かれている。
黒龍の仕掛の花魁が柔和(やわ)らかい表情で新春(はる)の空を見つめていた。
恋する、優しい瞳の花魁だ。
(一体どんな気持ちで、芳さんはこれを・・・・・・。)
傷は決して癒えていない。
彼の中には見えない痕が死ぬまで残るのだろう。
それでも今日のように、江戸に陽光が燦然と輝く限り、
(前に前に、進むしかねえ。)
拗ねても引っ掻いても、結局人というものは明日に向かう事しかできやしないのだから。
そうだよな。・・・・・・
「なア、紫野花魁」。
佐吉が絵に向かって親しみを込めて呼び掛けると、紙の中の花魁が懐かしいくしゃくしゃの笑顔で笑った気がした。
歌川国芳「風俗女水滸伝 九紋龍史進」大英博物館蔵
(了)
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
