「敵に塩を送る」という言葉の語源である美談 “上杉謙信が宿敵 武田信玄に塩を送った”というのは史実なのか?

Japaaan

「敵に塩を送る」という言葉の語源である美談 “上杉謙信が宿敵 武田信玄に塩を送った”というのは史実なのか?

上杉謙信と武田信玄は11年間、5回にわたって戦ったまさに宿敵同士。その信玄に謙信が塩を送ったという美談は、知らない人がいないくらい有名な逸話。ところが、現在では、この逸話は後年に作り出された架空の話だったと考えられています。

1568年、武田信玄はそれまで同盟関係になった駿河の今川氏真を攻めました。武田氏の領地であった甲斐と信濃は内陸だったため、塩を含む海産物などは今川氏の駿河方面から運び込んでいましたが、この争いが始まってからは、今川氏が商品の流通をストップし、武田氏はなかなか塩が手に入らなくなりました。

「塩の道」を絶たれてしまった武田信玄

そんなとき、上杉謙信が「信玄と争うところは、弓箭(きゅうせん・いくさ)にある。米や塩ではない」として越後府内の政商・蔵田五郎左衛門に越後からの塩の流通をとどめないように命じたと伝えられています。

氏真が荷物の流通を止める「荷留」を行ったことは事実ですが、川中島の戦いなどで何度も戦った武田氏と上杉氏の間にはまだ緊張状態が続いており、謙信が積極的に塩などの物資を送るなどということは当時の状況を考えて可能性が低いといわざるを得ません。

では、この美談はどういう経緯で生まれたものなのでしょうか。

上杉領の越後から武田領の信濃へと続く糸魚川街道。この辺りは古くから塩の流通ルートとして知られていました。今川氏による荷留によって駿河からの輸入が止まったことで、民間ルートでは糸魚川からの輸入が必然的に増えました。

この事実が「謙信からの贈り物」として美談となった、というのが真相のようです。

信玄に塩を贈ったと伝えられる上杉謙信

現在、長野県の松本、豊科、池田、大町などで、正月から2月にかけて、「飴市」が開かれていますが、この市の起源を語る伝承として、謙信から塩が送られて以来、盛んに塩市が開かれ、その市で飴が売られるようになったとされています。松本市内には、塩を運んだ牛をつないだ「牛つなぎ石」が現在も残っています。

ちなみに現在、東京国立博物館には、「塩留めの太刀」(しおどめのたち)といわれる一振りの太刀が収蔵されています。これは、信玄が塩を送ってもらったことに感謝し、上杉家に贈った太刀だと伝えられています。

史実はどうあれ、現在も「敵に塩を送る」という言葉は、争っている相手が苦しんでいるときに、争いの本質ではない分野については援助を与えることのたとえのことわざとして残されています。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「「敵に塩を送る」という言葉の語源である美談 “上杉謙信が宿敵 武田信玄に塩を送った”というのは史実なのか?」のページです。デイリーニュースオンラインは、上杉謙信戦国時代ことわざ武田信玄カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧