超話題の2019年NHK正月時代劇「家康、江戸を建てる」の予習!神田上水をつくったのは誰か? (2/3ページ)
藤五郎はさぞ「水利き」ができるだろう・・・そう考えた家康は、天正18年(1590年)の夏、藤五郎に江戸城下の上水の普請を命じます。
伝説では、藤五郎は驚くべきことに約3か月で小石川目白台下の河流を神田方面に通し、神田上水の基礎となる部分を造り上げました(小石川上水とも呼ばれる)。住人達の飲み水の確保に大きく貢献した功績により家康から「主水(もんと)」の名を賜りました。
藤五郎は元和3年(1617年)7月6日死去するも、彼の子孫は代々「大久保主水」を名乗り、幕府御用達の菓子司となりました。
百姓・内田六次郎説六次郎の説が有力視されるのは、内田家が明和期まで代々「神田上水水元役(みずもとやく/上水管理責任者)」を務めたという記録があるためです。なんでも神田上水の源水を「七井の池(現・武蔵野市井の頭池)」にしようと見立てたのはこの六次郎なのだとか(諸説あり)。
これを他の川と合流させながら東に引き、目白関口の「目白下大洗堰(めじろしたおおあらいぜき)」というダムに貯め、そこで水量を調節しつつ江戸の中心に向かって流す。この神田上水の巨大な構想に六次郎がどこまで携わったのか、はっきりとは分かりません。
しかし後の内田家の待遇からして、彼が神田上水の開設に大きな役割を果たした事は間違いないようです。
長谷川雪旦画「江戸名所図会 目白下大洗堰」Wikipediaよりドラマでは・・・?原作「家康、江戸を建てる」では身分も性格も全く違う大久保藤五郎と内田六次郎が偶然にも出会い、物語が大きく動き出します。「江戸のインフラをゼロから創る」というロマン溢れる大プロジェクト、ドラマではどのように描かれるのでしょうか。