時代で変化する「お江戸」エリア。花のお江戸は八百八町というけれど実際はもっと広かった? (2/2ページ)

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「江戸」の範囲については、1791年頃には、「江戸城から四里(約16キロメートル)四方の場所が府内(江戸)」という大まかな目安があったようです。当時行われていた「江戸払い」という追放刑では、「品川・板橋・千住・四谷大木戸・本所・深川の外に追放する」とされていることから、これより内側の地域が一般に江戸と認識されていたようです。

こうした状況の中、江戸の範囲が幕府によって決められたのは、意外にも時代が下った1818年のことでした。その背景には欧米列強に対する危機意識もあったのかもしれません。

幕府は、江戸の地図上に朱線をひき、府内と府外を分けました。

江戸朱引図(東京都公文書館所蔵)

そして、府内は、北は板橋・千住、東は亀戸(江東区)、小名木(江戸東区)、西は現在の山手線の辺りと決めました。「朱線でひかれた」ということから「朱引内」という言葉も生まれました。

「江戸」といっても時期によってその範囲に違いがあるのですね。

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