時代で変化する「お江戸」エリア。花のお江戸は八百八町というけれど実際はもっと広かった?

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時代で変化する「お江戸」エリア。花のお江戸は八百八町というけれど実際はもっと広かった?

「花のお江戸は八百八町」という言葉を聞きますが、これは江戸の実際の町数をいったものではありません。昔の日本人にとって、「八」や「百」は、「多さ」を表す慣用数字。ですので、この言葉も、江戸という都市空間に多数の町が存在していたことを示す慣用表現のひとつです。

さて、「江戸」のはじまりは、1596年から1644年(慶長寛永年間)に江戸城を中心に三十町が誕生したから始まります。その後、三十町から発展して約三百町が誕生しました。

1657年に明暦大火が発生すると、江戸城天守をはじめ、町の多くが焼失します。ところが、これを契機に都市改造に取り組んだ幕府によって、本所や深川といった、当時未開発だった地域も開発が進みました。

当時の混乱は凄まじかった…江戸の町が焼け野原となった「明暦の大火」

結果として1662年には町奉行が支配する町は六七四町にまで拡大。1713年には、九三三町となり、「八百八町」をゆうに超えてしまいました。また、1745年から翌年には、それまでの寺社奉行管轄の門前町が町奉行の支配下となったため、江戸の町数が一六七八町にまで増加したのでした。

このような変遷に伴って、人々の意識の上での「江戸」の範囲も変化していったようです。

「江戸」の範囲については、1791年頃には、「江戸城から四里(約16キロメートル)四方の場所が府内(江戸)」という大まかな目安があったようです。当時行われていた「江戸払い」という追放刑では、「品川・板橋・千住・四谷大木戸・本所・深川の外に追放する」とされていることから、これより内側の地域が一般に江戸と認識されていたようです。

こうした状況の中、江戸の範囲が幕府によって決められたのは、意外にも時代が下った1818年のことでした。その背景には欧米列強に対する危機意識もあったのかもしれません。

幕府は、江戸の地図上に朱線をひき、府内と府外を分けました。

江戸朱引図(東京都公文書館所蔵)

そして、府内は、北は板橋・千住、東は亀戸(江東区)、小名木(江戸東区)、西は現在の山手線の辺りと決めました。「朱線でひかれた」ということから「朱引内」という言葉も生まれました。

「江戸」といっても時期によってその範囲に違いがあるのですね。

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