巨人対阪神「“新監督”血の抗争」長嶋茂雄VS野村克也の代理戦争勃発!

日刊大衆

写真はイメージです
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 長年の宿敵同士の因縁は、その弟子へと引き継がれた。スター三塁手と稀代の名捕手の死闘が、再び始まる!

 巨人と阪神。窮地に立たされている伝統の2球団が、ともに新体制での出直しを図っている。今季、4年連続V逸に終わった巨人。来季は常勝軍団復活を目指し、原辰徳監督(60)が3度目の指揮を執ることになった。「原監督は、リーグ優勝7回、日本一3回という巨人きっての名将。来年優勝を逃せば、球団創設以来のワースト記録ですから、球団はチーム編成すべてを委ねる“全権監督”という特別待遇で、原監督を迎えています」(スポーツ紙デスク)

 だが、阪神は近年、巨人以上の低迷が続いている。優勝から遠ざかること実に13年。しかも今季は最下位に転落している。そんな最悪のチーム状況を立て直すべく起用されたのが、矢野燿大新監督(50)だ。「今季、阪神の2軍は8年ぶりにウエスタンで優勝。日本一にも輝いています。その立役者となったのが、矢野2軍監督。就任1年で結果を出した手腕が高く評価され、猛虎再生を託されました」(スポーツ紙記者)

 巨人、阪神といえば長年、激闘を繰り広げてきた“永遠のライバル”。新指揮官となった2人も、「伝統の一戦」でしのぎを削ることになる。

「この2人の場合は、単なるライバル球団の監督同士、というだけでは終わらないでしょうね」 こう語るのは、球界事情通だ。「彼らの“師匠”は、長らく敵対関係にありました。師匠の遺伝子を受け継ぎ、指導者となっている2人ですので、来季は師匠のプライドを背負って、ぶつかりあう……ある意味“代理戦争”が繰り広げられるというわけです」(球界事情通)

 長く深い因縁を持つ彼らの師匠。それは球界最大のライバル、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督(82)と、野村克也氏(83)に他ならない。

 原監督は、長嶋第二次政権下でコーチとなり、そこで巨人指揮官としての帝王学を叩き込まれた。「試合後は、2人きりで采配を振り返るのが恒例でした。もともと原さんは“長嶋派”ではなく藤田派。それでもミスターは、後継者として惜しみなく野球理論を伝授したんです。そんなミスターに最後は原さんも、すっかり心酔していたといいます」(巨人番記者)

 英才教育を受けた後、原コーチは、長嶋氏の後任として監督に就任。師匠の期待に応え、就任1年目で日本一達成という快挙を成し遂げている。

 一方の矢野監督は、1999年に阪神監督に就任した野村氏によって、球界を代表する名捕手へと育て上げられた。「野村さんは“頭を使え!”と、矢野に考える野球を意識させていった。もともと守備には定評があった矢野ですが、これで打撃が開眼。打率3割をマークできるようになり、結果、捕手としても洞察力やリードがさらに成長していきました」(虎番記者)

 野村氏のボヤキを間近で聞き続け、野球脳を確立していった矢野監督。今でも、“野村監督に教わったことが財産”と公言している。

■オールスター戦でも本気で抑えにかかって

 長嶋、野村両氏に、大きな影響を受けた原と矢野。彼らの激突が“代理戦争”となる背景には、やはり師匠の長い対立の歴史がある。その始まりは、現役時代にまでさかのぼる。巨人の長嶋、南海の野村。年齢的に同学年でもある2人は、セ・パ両リーグを代表する強豪チームの中心選手として出会った。しかし、その地位を築くまでの道のりは、あまりにも対照的だった。

「六大学野球の人気者だったミスターは、争奪戦の末に巨人入団。契約金は当時の最高額でした。そして1年目からレギュラーをつかみ、本塁打と打点の二冠を獲得。新人王にも輝いて一躍、球界のスーパースターとなったんです」(当時を知る元記者)

 片や野村氏は、大学卒の長嶋氏より4年早くプロ入り。ただし、プルペンキャッチャーでのテスト入団だった。「ブルペン捕手は通称“カベ”。投手の練習台でしかなく、いつクビを切られてもおかしくない立場です。しかしノムさんは、そこから猛練習に猛練習を重ね、3年目で1軍の正捕手の座を勝ち取った。まさに、努力の人なんです」(前同)

 そんな野村氏は、巨人、そして長嶋氏のことを常に意識していた。「当時のプロ野球は、巨人戦のあるセ・リーグの人気が圧倒的。パ・リーグの選手にしてみれば、“実力じゃオレたちが上”という自負があった。本来、お祭りであるオールスターゲームでも、パの選手たちは絶対に負けたくないと、みんな目の色を変えてプレーしていたほど。その筆頭がノムさんだった」(同)

 実際、野村氏はオールスター戦でも長嶋氏を本気で抑えにかかった。ときには、セの投手陣に弱点を聞いて回っていたという。それでも、この天才打者は抑え切れなかったようだ。

「最近も、ノムさんは“最後まで長嶋の攻め方は分からなかったよ”とボヤいていました。お得意の囁き戦術も、まったく通用しなかったそうです。“最近、銀座行ってる?”と話しかけても、ミスターは“このピッチャーはどう?”なんて返してきて、会話が成立しなかったのだとか(笑)」(前出のデスク)

■スター性に嫉妬してライバル心むき出し

 リーグは違っても、“打倒長嶋”に燃えていた野村氏。南海時代のチームメイトだった野球解説者の江本孟紀氏は、その理由をこう分析する。

「ノムさんが長嶋さんを目のカタキにしていたのは、“羨ましさ”からでしょう。もともとノムさんは巨人ファンだし、長嶋さんは自分にない天性の“スター性”を持っている。そんな憧れや羨ましさが裏返しになり、むき出しのライバル心に変わったんだと思いますよ」

〈長嶋が太陽の下で咲くひまわりなら、どうせオレは日本海で夜に咲く月見草〉 野村氏が残したこの名言も、「ねたみ・ひがみ・うらみを込めて1か月考えた」と後年、自ら明かしている。

 そんな野村氏に対し、長嶋氏のほうはどうだったのか。前出の元記者は、こう証言する。

「当時のミスターにとって、ノムさんは単純にパ・リーグの有力選手の一人。それほど特別な意識はしていなかったようです。ただ、ミスターが第二次政権で巨人の監督になり、野村ヤクルトと戦うようになってからは、ちょっと変わりましたけどね……」

 そう、2人は現役引退後、今度は同じリーグで戦う監督として、再び敵対関係となっているのだ。

■乱闘騒ぎにも発展して

 1993年、長嶋氏が13年ぶりに巨人監督に復帰。すると、すでに90年からヤクルトの監督を務めていた野村氏の“打倒長嶋”も復活する。「“カンピュータ”だの“審判を味方につけている”だの、野村監督はとにかく徹底的にミスターを挑発する発言を繰り返しました。ミスターが表立って反撃することはありませんでしたが、顔を合わせる場面では完全無視。近しい関係者には“ヤクルトに負けると腹が立つ”と、こぼしていたそうです」(デスク)

 もはや両者のライバル関係は、かつてのような一方的なものではなくなっていた。そして、指揮官同士の対立は、やがてチームをも巻き込んだ遺恨となる。94年5月。神宮球場での試合で事件は起きた。発端は2回表。打席に立った村田真一が、ヤクルト先発の西村龍次から頭部にデッドボールを受け、退場したことだった。「前年からヤクルトの投手陣は、内角の厳しいところをガンガン攻めていたんです。それだけに、巨人ベンチは怒り心頭でした」(当時の番記者)

 続く3回裏。打席に入った西村に、今度は巨人の木田優夫が死球を与える。誰の目にも明らかな“報復”だった。「7回には、またも西村が打者のグラッデンの頭近くに投球。これにグラッデンが激怒。捕手の中西と殴り合いになり、結局、大乱闘に発展しました」(前同)

 この事件は、現在の「危険球ルール」制定のきっかけともなった。「当時の巨人とヤクルトは、両者とも強かった。実際、93年から97年まで交互に日本一となっています。直接対決が激しさを増すのも当然ですし、それだけ両監督が勝利への執念を燃やしていたということでしょう」(球界事情通)

 長嶋、野村両監督の直接対決は、2001年シーズンが最後。勝負の行方は、来季の愛弟子たちへと引き継がれる。「原監督は、さっそく丸、炭谷、中島、岩隈を獲得するなど、相変わらずの大型補強。まさに、勝つためなら手段を選ばない“長嶋イズム継承”を、今回も発揮した形です」(巨人番記者)

 そんなライバルの大補強にもめげることなく、矢野監督は打倒巨人を宣言した。「矢野監督は、圧倒的戦力の巨人に対し、“知恵を絞って戦う”と意欲を見せていました。阪神は、このオフに目立った補強をしていません。限られた戦力を頭脳で生かすこれは、まさに“ノムラの教え”。打倒巨人は野村イズムにかかっていますね」(虎番記者)

 はたして長嶋氏と野村氏の“代理戦争”決着の行方はいかに?

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