戦国時代、甲斐国を統一した武田信虎!追放後の意外なセカンドライフ

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戦国時代、甲斐国を統一した武田信虎!追放後の意外なセカンドライフ

平成三十2018年12月20日(木)、甲府開府500年記念事業の一環としてJR甲府駅北口よっちゃばれ広場(山梨県甲府市)に建立された武田信虎(たけだ のぶとら)公像の除幕式が行われました。

信虎公は永正十六1519年に甲府の地を拓き、やがて甲斐国(現:山梨県)を統一するも、その乱行(※諸説あり)から天文十1541年6月14日、嫡男である信玄公(当時は晴信)らによって駿河国(現:静岡県東部)へ追放されてしまいます。

その後、生涯にわたって甲斐の地を踏むことなく、死後は甲府市の大泉寺に葬られ、現在も墓が伝わっています。
※参考:武田信虎の墓(たけだのぶとらのはか)/富士の国やまなし観光ネット

武田信廉「武田信虎肖像」天正ニ1574年

信虎公の銅像は、彼の嫡男にして信玄公の弟である武田信廉(たけだ のぶかど)公が描き遺した肖像画さながらの出家姿で、袈裟をまとって右手に軍配を持った雄々しい姿が印象的です。

甲斐国を追われてより477年目、南口の信玄公と同じ甲府駅前に並び立った信虎公の雄姿は、かつて戦国乱世を戦い抜いて甲斐国を統一した偉業を偲ばせ、末永く山梨県人の誇りとして伝えられることでしょう。

追放後の信虎公は……?その意外な活躍(セカンドライフ)

ところで、甲斐国を追放された後の信虎公についてはあまり知られていませんが、間もなく出家して「無人斎道有(むじんさい どうゆう)」と改名。

その後は京都や奈良、高野山を遊覧したり、京都に屋敷を構えて足利幕府に奉公したり、公家や文化人たちと交流したり……と、なかなかのセカンドライフを満喫していたようです。

東京大学史料編纂所蔵「足利義昭肖像」江戸時代

と思えばその一方で、元亀四1573年3月には将軍・足利義昭の命によって南近江の大名・六角(ろっかく)氏と組み、反・信長包囲網の一員として近江国(現:滋賀県)への侵攻を企むなど、異国の地でもなかなかの武将っぷり。

しかし、作戦の要であった嫡男・信玄公が上洛中(同年4月12日)に陣没してしまったことで、反・信長包囲網は空中分解。やがて足利義昭は京都から追放され、足利幕府は滅亡してしまいました。

JR甲斐大和駅前の武田勝頼公像。

京都から逃れた道有は天正二1574年、信濃国・高遠城(現:長野県伊那市)を治めていた信廉公の元に身を寄せ、嫡孫に当たる武田勝頼(たけだ かつより)公と対面したとも伝えられます。

その後、娘婿である松鴎軒常安(しょうおうけん じょうあん)こと禰津政直(ねづ まさなお)の庇護下で信州高遠で暮らし、同年3月5日に81歳で亡くなったそうです。

終わりに

そして現代、甲斐国の中心地である甲府駅を南北に挟み、かつて激しい確執の末に訣別した父子が並び立ったのでした。

甲府駅南口の信玄公像。

嫡男・信玄公の陣没によって失敗したとは言え、壮大なスケールで共に同じ敵(織田信長)を討つべく、父子それぞれに戦っていたことは、親子の浅からぬ因縁を感じずにいられません。

あらためまして、この度は甲府の開府500年、誠におめでとうございます。

※参考

信虎像 甲府駅広場に…武田氏 3代そろう 甲府開府500年記念事業 富士の国やまなし観光ネット

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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