「親の七光り」なんて言わせない!和泉式部の娘・小式部内侍が見せつけた当意即妙の歌才 (4/5ページ)
女流歌人として地位を確立
これ以来、小式部内侍を「親の七光り」などと馬鹿にする者はいなくなり、めでたく女流歌人としての地位と名声を確立していきました。
(※もしかしたら、母親が丹後国へ旅立つ前に、こういう事態を想定して作っておいた、と邪推できなくもありませんが、さすがに野暮というものです)
むつまじき男女(イメージ)、鎌倉時代「長谷雄草紙」より。
そして、母親と同様に恋多き人生を歩むことになるのですが、その華麗な恋人たちの中に、なぜかあの定頼もラインナップされており、実に男女の仲とは不思議なものです。
(※あの意地悪な定頼の、どこが良かったんでしょうね。また、年齢差も気になるところです)
その後・受け継がれる歌才と夭折の哀歌しかし「佳人薄命」とはよく言ったもの、万寿ニ1025年11月、藤原権中納言公成(ふじわらの ごんちゅうなごん きんなり)の子を出産した際に亡くなってしまいます。まだ20代半ばでした。

※病床の小式部内侍(イメージ)。
まだ二十代も半ばの花盛りというのに……母親の和泉式部は悲しみのあまり、歌を詠みました。