荒海こえて行ったり来たり!日本書紀に登場する北方の異民族「粛慎(みしはせ)」とは?

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荒海こえて行ったり来たり!日本書紀に登場する北方の異民族「粛慎(みしはせ)」とは?

日本は四方を海に囲まれた島国ですが、その海を越えて多くの人やモノ、そして文化が行き交ったことは、今も昔も同じようです。

今回は古墳時代(ここでは6~7世紀ごろ)、日本海を越えて交流していた北方の異民族「粛慎(みしはせ)」について紹介したいと思います。

謎の狩猟民族「粛慎」について

粛慎とは『日本書紀』などに登場し、満洲地方の沿岸部や樺太一帯に住んでいた狩猟民族と考えられています。

粛慎の分布略図(中央上)。大陸沿岸部から樺太にもいたとされる。Wikipediaより。

中国の史書にも同じ漢字で「粛慎(しゅくしん)」という民族が記録されていますが、活動年代がそれぞれ違うため、その同一性については諸説あるようです。

※中国の粛慎が紀元前まで存在していた(とされる)のに対して、『日本書紀』などの記録は6~7世紀ごろとなっています。

ただ、中国の史書では、粛慎の後も同じ地域に粛慎の末裔とされるユウ婁(ゆうろう。ユウは手偏に邑。~5世紀半ばごろ)や勿吉(もっきつ。~6世紀末ごろ)、靺鞨(まっかつ。~7世紀ごろ)といった諸民族が入れ替わりに支配していました。

粛慎の人々(イメージ)。

……と言うより、むしろ中国政権側からの呼び方(記録に残す名称)が移り変わっただけで、当の粛慎たちは大して気にしていなかったのかも知れません。

そして日本は日本で、粛慎という古称(昔からの呼び方)をそのまま使い続けていた可能性もあり、ここでは「粛慎(みしはせ)≒粛慎(しゅくしん)」という説を前提とします。

また、粛慎の読みについても「みしはせ」だけでなく「あしはせ」とする説もあり、いまだ謎に包まれています。

怪現象や略奪騒ぎ……「粛慎」とのファーストコンタクト

『日本書紀』によると、日本人と粛慎のファーストコンタクトは欽明天皇五544年。

越国(こしのくに。現:北陸地方)の住民が言うには、粛慎の人々が船でやって来て、御名部(みなべ。佐渡島北部の地名だが、詳細不明)の海岸に停泊。

春や夏には魚を獲って暮らしていたそうですが、佐渡島の住民たちは「あいつらは人間じゃない。鬼かも知れない」などと恐れて、彼らに近づくことはなかったそうです。

【原文】越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人。乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。
※『日本書紀』欽明天皇五年十二月条

ある時(粛慎の人々が滞在中)、佐渡島の東部にある禹武(うむ)村の住民がドングリ(椎の実)を集め、煮て食べようと灰の中で炒って(灰汁抜きのため?)いたところ、ドングリが二粒、それぞれ小人の形になって一尺(約30センチ)ほども飛び上がり、互いに喧嘩を始める、という怪現象がありました。

椎の実。

これは何かの異変に違いない!」と占ってもらったところ「この村の者はやがて鬼に惑わされるであろう」という結果が出て、間もなく禹武村は略奪に遭ったということです。

【原文】嶋東禹武邑人採拾椎子、爲欲熟喫。着灰裏炮。其皮甲化成二人、飛騰火上一尺餘許。經時相鬪。邑人深以爲異、取置於庭。亦如前飛相鬪不已。有人占云「是邑人必爲魃鬼所迷惑。」不久如言被其抄掠。
※『日本書紀』欽明天皇五年十二月条

この禹武村での略奪が、御名部海岸にいた粛慎による犯行なのか、その因果関係は判りません。

先ほど「春と夏は魚を獲って暮らしていた」ことが記されていましたが、秋から冬にかけて魚があまり獲れなくなり、飢えた粛慎の人々が禹武村まで遠征・略奪した可能性も、両地の位置関係次第ではありえなくもなかったでしょう。

やがて粛慎の人々は舟で瀬波河浦(せなみかわのうら)という場所に移住するのですが、恐らく村人たちが「あいつら(粛慎)の仕業に違いない!」と追い立てた結果と考えられます。

瀬波河浦は聖域だったようで、住民は神々を畏れてそれ以上追って来なかったものの、孤立した粛慎の人々は食糧や水の確保もままならず、渇きのあまり海水(浦の水)を飲んで次々と死亡。

やがて死者は半分にも達し、その骨(亡骸)は岩穴に溜まった(捨てられていった)ため、そこそ「粛慎隈(みしはせのくま)」と呼ぶようになったそうです。

【原文】於是肅愼人移就瀨波河浦。浦神嚴忌。人敢近。渴飮其水。死者且半。骨積於巖岫。俗呼肅愼隈也。
※『日本書紀』欽明天皇五年十二月条

記述はここまでとなっていますが、恐らく粛慎の人々は「もうこれ以上ダメだ!定住or拠点化は諦めよう!」と撤退していったものと考えられます。

こうして日本人と粛慎とのファーストコンタクトは終わったのでした。

斉明天皇による粛慎征伐の始まり

その後しばらく『日本書紀』から粛慎に関する記述がなくなりますが、次に粛慎の人々が登場するのは、ファーストコンタクトから一世紀以上が経過した斉明天皇四658年。

ここで猛将・阿倍比羅夫(あべのひらふ)が登場、三年間にまたがる粛慎討伐の始まりです。

月岡芳年 『大日本名将鑑 阿部比羅夫』明治十一1878年。

斉明天皇四658年、越国の国守である阿倍引田臣比羅夫が粛慎を征伐、戦利品としてヒグマ2頭、ヒグマの毛皮70枚を献上。

【原文】是歲、越國守阿倍引田臣比羅夫討肅愼、獻生羆二・羆皮七十枚。

斉明天皇五659年3月、阿倍引田臣比羅夫が粛慎を征伐、捕虜39人を献上したとも言われます。

【原文】或本云、阿倍引田臣比羅夫與肅愼戰而歸。獻虜卅九人。
※それぞれ『日本書紀』斉明天皇四年条、同五年三月条

など、随分と簡素な記録ですが、翌斉明天皇六660年3月には、詳細な粛慎征伐の記録が残されています。

三度目の大遠征・阿倍臣率いる大船団

斉明天皇は阿倍臣(名前が明記されていないが、恐らく比羅夫と思われる)に二百艘の船団を率いさせて粛慎討伐に派遣。遠征の道中で蝦夷の軍勢を組み込みながら、阿倍臣らは大河(アムール河?)のほとりに到着しました。

【原文】遣阿倍臣<闕名>、率船師二百艘伐肅愼國。阿倍臣以陸奥蝦夷令乘己船到大河側
※『日本書紀』斉明天皇六年三月条

すると、渡島(現:北海道と推定)から来ていた蝦夷が千人ばかり海岸にいて、その中から二人ばかりが阿倍臣の前に進み出て「粛慎の大軍が私たちを殺そうとしています。お仕えしますので、どうか助けて頂けますようお願いします」と申し出ます。

【原文】於是渡嶋蝦夷一千餘屯聚海畔、向河而營。々中二人進而急叫曰「肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣」。
※『日本書紀』斉明天皇六年三月条

話を聞いた阿倍臣は二人の蝦夷に粛慎軍の布陣や軍船の数を訊ねると、蝦夷らは粛慎軍の居場所を指して軍船は二十艘あまりであると答えました。

そこで阿倍臣は使者を出してアプローチを試みるも、粛慎からのリアクションはありませんでした。もしかしたら、自分たちより十倍ほども多勢な阿倍臣の軍勢に、恐れをなしたのかも知れません。

【原文】阿倍臣遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數。兩箇蝦夷便指隱所曰「船廿餘艘」。即遣使喚而不肯來。
※『日本書紀』斉明天皇六年三月条

粛慎との交渉決裂・弊賂弁嶋の決戦

そこで阿倍臣は次なるアプローチとして、色鮮やかな絹や武器、鉄などを海岸に並べて置き、自分たちは少し離れ、粛慎に持って行かせようとしました。

暫く待っていると、粛慎の船から2人の老人が上陸し、並べ置かれた絹などを観察すると、その一部を船に持って帰りました。

「これでアプローチ成功か?」と思われましたが、再び老人がやって来て、持ち去った物品を元に戻して船に引き上げていきました。

【原文】阿倍臣乃積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜。肅愼乃陳船師、繋羽於木、擧而爲旗。齊棹近來停於淺處。從一船裏出二老翁。廻行熟視所積綵帛等物。便換著單衫、各提布一端。乘船還去。俄而老翁更來脱置換衫、并置提布。乘船而退。
※『日本書紀』斉明天皇六年三月条

随分とまどろっこしいやりとりですが「降伏すれば、これらの品々をくれてやる」というメッセージだったのでしょうか。

かくして交渉は決裂、その後も阿倍臣は何度かアプローチを試みるも応じず、粛慎たちは渡島の一部といわれる弊賂弁嶋(へろべのしま。渡島≒北海道の一部と言われるが、利尻島or奥尻島などと推定されている)まで退却し、砦(柵)に立て籠もったそうです。

事ここに至って阿倍臣は粛慎に対して宣戦布告、その立て籠もる砦を攻め立てたところ、やがて粛慎が和睦を求めて来ましたが、阿倍臣はこれまでのアプローチに対する非礼に怒っていたのか、これを拒絶。

激戦の中で阿倍臣の部将である能登臣馬身龍(のとのおみ まむたつ)が戦死したものの、ついに粛慎の砦は陥落。粛慎たちは「最早これまで」と妻子を殺し、(記述にないものの)自分たちも自決したようです。

【原文】阿倍臣遣數船使喚、不肯來。復於弊賂弁嶋。食頃乞和、遂不肯聽。<弊賂弁、度嶋之別也。>據己柵戰。于時能登臣馬身龍爲敵被殺。猶戰未倦之間。賊破殺己妻子。
※『日本書紀』斉明天皇六年三月条

その後

その後、粛慎はヤマト朝廷と和睦したのか、粛慎征伐の動きは沈静化していきます。

『日本書紀』には阿倍臣が粛慎の人々をもてなすエピソード(斉明天皇六660年五月条)や、新羅国(しらぎ。現:朝鮮半島東部)からの使者に粛慎人が随行していた記録(天武天皇五676年十一月条)、持統天皇が粛慎人二人に務広肆(むこうし。後の従七位下に相当)等の官位を与えたエピソード(持統天皇八694年一月二十三日条)等が残されています。

そして、持統天皇が粛慎人の志良守叡草(しらすえそう)という者に錦の袍(ほう。上着)と袴、絹や斧などを下賜した持統天皇十696年3月12日を最後に、『日本書紀』からその姿を消したのでした。

まとめ

よく「日本は島国だから、国際情勢に疎い」などと言われる方もいますが、四方が海だからこそ、舟であっちこっちに出て行って、多くの国や民族と交流を重ねてきました。

歴史を学ぶとき、国内だけでなく周辺国や民族の情勢・関係も視野に入れてみると、よりダイナミックに感じられて楽しいものです。

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