大谷翔平の“大先輩”村田兆治が語る「トミー・ジョン手術」 (2/2ページ)

日刊大衆

 でも当時は、肘にメスを入れたら投手生命は終わり、というのが定説だった時代。俺は、球団と「手術が失敗したら、潔く引退します」という約束を交わさなければならなかった。

 手術を受ける前、ジョーブ博士に一つ確認したことがあるんだよ。「先生は手術に失敗したことはないんですか」って。そしたら、博士は「ある」と答えた。その言葉を聞いて、「この人は信頼できる」と確信したんだよな。

 幸い、手術は成功。ただ、今度は厳しいリハビリが待っていた。暗闇を一歩一歩這って進んでいるような感じだったけど、再びマウンドに上がるまでは弱音を吐くつもりはなかった。どんな壁を前にしても、絶対に逃げない。それが俺の生き方だから。

 ――手術から2年近く。85年4月14日、村田氏は西武戦に先発し、155球の完投勝利。以降、毎週日曜日に登板し、開幕から11連勝。「サンデー兆治」と呼ばれ、その復活劇は当時の社会現象にもなった。

村田:ジョーブ博士からは「1試合100球まで」と言われていたんだけどね(笑)。手術後の初先発となった試合では、100球を超えると稲尾和久監督がマウンドにやって来て、こう言われたんだ。

「兆治、おまえの何がなんでも勝ちたいという気持ちは分かる。しかし、もういいだろう。十分、投げたよ」 でも、こっちは完投するつもりだったからね。「監督、この試合を俺にください」と言って、監督からボールを奪い取った。

 その結果が155球の完投勝利。投げ終えた瞬間、これで、やっと復活を確信することができたんだ。それからは1週間に1度、日曜日の先発が指定席になった。中6日は以前の俺からすれば、ずいぶん登板間隔が空いている。でも、当時の自分にはそれが精いっぱい。

 肘を手術してから7年間で59勝しているけど、手術する前の156の勝ち星より重みを感じるよ。

 俺は、40歳で迎えた1990年のシーズンを最後に、現役を引退した。この年は10勝8敗だったし、まだ、できるんじゃないかと言ってくれる人もいたけど、もう完投する力がなくなりつつあったんだ。

 事実、この年の完投は4試合だけ。俺はエースなら「先発完投」が当たり前だと思っている。同じ1勝でも、6回しか投げていないのと、9回を投げ切ったのでは価値が違う。だから、もう引き際だと判断したんだ。

 ――さらに現在発売中の『週刊大衆』1月28日号では、村田兆治氏が今も衰えぬ「野球への情熱」、そして老いても前向きな「生き様」を語る

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