長野久義、村田修一、清原和博…巨人に捨てられた男たち

日刊大衆

長野久義、村田修一、清原和博…巨人に捨てられた男たち

 球界の盟主が、優勝のために敢行し続けてきた大型補強。そのカゲには多くの“犠牲者”が存在した……!?

 巨人ファンならずとも衝撃的な“人事”だった。今季、FAで巨人へ入団した炭谷銀次朗、丸佳浩両選手の人的補償として、巨人生え抜きの内海哲也、長野久義が、それぞれ放出されることになったのだ。「2人とも、原第二次政権から長年チームを支え続けた巨人の看板。そんな選手を手放したとあって、ファンはもちろん、巨人OBからも“どうして彼らをプロテクトしなかったのか”と、厳しい声が続出しました」(スポーツ紙記者)

 現在、FA人的補償のプロテクト枠は28人。1軍登録選手が29人であることを考えると、中心選手をすべて守るのは不可能に近い。功労者とはいえ、ピークを過ぎたベテラン選手が外されるのも仕方がないような気もするが……。

「彼らの場合は、ただの功労者ではないんですよ」 こう声を強めるのは、ある巨人関係者だ。「内海も長野も、他球団を蹴ってまで巨人入団にこだわった、いわば“ジャイアンツ愛”の象徴。それだけにショックが大きいんです」(巨人関係者) ファンならば、誰もが2人の“入団時のいきさつ”を知っている。だからこそ、今回の移籍が批判を集める結果となったわけだ。

 内海は、2003年に巨人入り。しかし、敦賀気比高3年だった00年、すでに他球団からドラフト1位指名を受けている。「プロ注目の左腕だった内海は、ドラフト前に“巨人以外入団しない”と宣言しましたが、オリックスが強行指名。入団を拒否して、東京ガスに進んでいます」(スポーツ紙デスク) 社会人に進んだことで、内海はドラフトで希望球団に入れる“自由獲得枠”の使用が可能に。3年後、晴れて巨人入団を果たす。

 一方、巨人・長野の誕生は、内海以上に難産だった。始まりは06年のドラフト会議。日大4年だった長野は、巨人志望を明言していたものの、日本ハムに4位で指名されてしまう。「最愛の球団から指名されず、長野は悔し涙まで見せていました。その後、日ハムのスカウトを門前払いするほど頑なな態度で、入団を拒否しています」(前同)

 そして社会人のホンダに入社し、臨んだ08年のドラフト。またしても巨人から指名はかからず、千葉ロッテが2位指名。ここでも入団を拒否し、社会人残留を選択した。「翌09年、巨人は早くから長野の1位指名を発表。3年がかりで、やっと念願の巨人入りが実現しました。なお、ドラフト当日に原監督が長野を訪問するなど、“VIP待遇”で迎え入れられています」(同) 恋焦がれ、何年もかけて、やっと袖を通せた巨人のユニフォーム。一途な愛を貫いた選手だけに、今回の球団の判断が、あまりに非情に映ったのも無理はない。

「内海も長野も近年衰えが見えるとはいえ、まだまだ主力として十分期待できる選手。そんな2人をプロテクトから外したのは、年俸の高さに加え、FA権を保有していたから、ともいわれています。まさか、そんな選手を指名してこないと思ったんでしょうね。しかし結果的に、2人が巨人のFA戦略の犠牲者になってしまったことは、否定できません」(同)

■巨人から非情な戦力外通告

 1993年オフにFA制度がスタートして以来、大きな恩恵を受けてきた巨人軍。その中心にいたのは、長嶋茂雄監督だった。「93年に監督復帰して3位に終わったミスターは、さっそくFAで落合博満を獲得。この補強は功を奏し、翌年、日本一に輝いています」(巨人番記者)

 その後も長嶋監督は、FAで他球団の主力をかき集める“大型補強戦略”を推し進めた。そして長嶋流のチーム編成術は、愛弟子である原監督に引き継がれ、3連覇2回という常勝軍団を作り上げる。

 しかし、そんな大型補強の陰では、球団から見捨てられてしまった選手も少なくない。「プロは実力の世界ですが、FA以降、球団のシビアな面が浮き彫りになったのもまた事実。かつての主力も戦力にならなくなれば、あっさりクビを切る……。実際、FA移籍組の中で、引退を巨人で迎えた選手は6人しかいません」(ベテラン記者)

 巨人が下した非情な決断。記憶に新しいところでは、村田修一だろう。村田は11年に横浜からFAで巨人に移籍。4番打者として活躍し、生え抜き以外では初となる選手会長も務めた。「17年のオフ、村田は戦力外を言い渡されました。球団の発表では“若返り”が理由でしたが、簡単に功労者のクビを切ったという印象は拭えませんでしたね」(前出の巨人番記者)

 この年、村田は開幕当初こそ控えだったものの、最終的には118試合に出場。打率2割6分8厘、14本塁打、58打点という、まずまずの成績だった。「常時スタメン出場すれば、まだまだ結果は出せたはずですし、三塁の守備はトップクラス。巨人も他球団が獲らないとは思わなかったんでしょう。通算2000安打達成間近(残り135本)だったこともあって、球団側の冷酷さが際立ってしまいました」(前同)

 村田は、独立リーグで現役を続行したものの、翌18年に引退している。

■涙のドラフトで挫折を味わって

 そして村田同様、巨人に冷遇されたFA選手として、忘れてはいけないのが清原和博だ。清原は1985年の“涙のドラフト”で挫折を味わいながらも、96年、FAによって巨人入団という夢をかなえた。しかし――。

「清原本人も著書『告白』(文藝春秋)で、〈巨人での最後の2年間は辛いことばかりだった〉と語っていましたが、晩年は球団との摩擦がたびたび報じられるような状況でした」(同)

 04年に堀内恒夫監督が就任すると、清原の出場は激減。オフには翌年の戦力構想から外されてしまう。「退団もささやかれた中で、清原は“泥水を飲む覚悟で”と巨人残留を決意。そこには、大好きな巨人で現役を終えたいという強い思いがあったといわれています」(同)

 そして05年、清原は開幕4番に座り、復活の兆しを見せる。しかし、まだシーズン真っ只中の8月、当時の清武英利球団代表から“来シーズンは契約しない”と、早すぎる戦力外通告を受けてしまう。

「清原の場合、故障による衰え以外に、チーム内での“素行の悪さ”が球団側から問題視されていたのも大きい。ちなみに同日、清原の舎弟格だった元木大介にも戦力外が言い渡されています」(前出のベテラン記者)

 その後、清原はオリックスに移籍するが、満足に活躍できないまま08年に引退。“巨人でユニフォームを脱ぎたい”という清原の夢を、球団がまたも裏切ってしまう結末となった。

■桑田真澄も巨人と決別

 85年“涙のドラフト”のもう一人の当事者、桑田真澄の最後も、また寂しいものだった。巨人のエースとして173勝を挙げた桑田が、2軍暮らしを続けていた06年。桑田は9月に清武代表と面談し、巨人と“決別”することになる。「この席上、代表は桑田に引退勧告するとともに、将来の巨人指導者として、アメリカへのコーチ留学を提案。しかし桑田は、これを拒み、現役続行にこだわりました」(球界事情通)

 桑田は、球団発表に先駆け、自身のホームページに、〈明日、ジャイアンツのユニフォームでマウンドに立つのは、おそらく最後〉と、退団を示唆するメッセージを発表。2軍の最終登板前日のことだった。「桑田は“花道”の1軍昇格を待っていたものの、声がかからなかった。そこで、ファンのため“引退試合”の告知に踏み切ったといいます。しかし球団側は、桑田の一方的な退団発表に激怒。その後、長らく桑田と球団に深い溝ができる要因となりました」(前同)

 桑田の巨人最後の登板となったイースタンリーグの対湘南戦には、3495人ものファンがつめかけた。「2軍戦としては記録的な動員でしたが、桑田とともに三本柱として活躍した斎藤雅樹、槙原寛己両投手の引退試合は東京ドームで5万5000人。あまりにも対照的ですよね……」(同)

■二岡智宏は不倫騒動で

 球団の“非情采配”で巨人を去った選手の中でも、特に異質なのは二岡智宏のケースだ。二岡は、1998年のドラフトで巨人を逆指名して入団。1年目からショートのレギュラーをつかみ、一躍人気選手になった。しかし、順風満帆なプロ野球人生は、08年に一変してしまう。キャスターの山本モナと女性週刊誌にスクープされたのだ。「報道時、すでに二岡は妻帯者。巨人の看板選手と人気キャスターの不倫スキャンダルということで、大きく騒がれました。双方とも不倫関係は否定しましたが、“火消し”にはなりませんでしたね」(芸能記者)

 当時、二岡は肉離れのため、2軍で調整中の身。しかも、この年から巨人の選手会長を務めており、チーム内外から批判が殺到した。「二岡は“巨人の伝統に泥を塗った”と上層部の怒りを買い、オフにトレードで日ハムへ放出。選手会長を追い出すんですから、それだけ怒りが大きかったということでしょう」(デスク) 球界の盟主たる巨人にとって、許しがたい中心選手の女性スキャンダル。二岡が球団から切られたのは、自業自得でしかない。

 今後も巨人は、大型補強を続けていくだろう。入団する選手たちの末永い活躍を祈るばかりだ。

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