「喝!」の張本勲、長嶋茂雄との知られざる「愛憎43年秘話」
「巨人のために死に物狂いで頑張りたい」1975年11月、電撃トレードで日本ハムから巨人入りした張本勲は入団会見で、こう宣言した。傍らには、笑顔で見守る長嶋茂雄監督の姿があった。
球春が訪れ、各チームとも紅白戦や練習試合を行っているが、今回は、“ミスタープロ野球”長嶋茂雄と、“不屈の3000本安打”張本勲の知られざるドラマを、お届けしたい。
※ ※ ※
「ミスターは、ハリさんが欲しくて仕方なかったんです。現役引退後、75年のシーズンから監督としてチームを指揮しましたが、チームはガタガタでしたから。それで、自分に似たタイプのバッターであるハリさんを熱望したんです。彼はミスターと同じく広角打法の名人で、ホームランバッターではないけど大きいのも打てるし、勝負強いところも魅力だった」(当時を知る古参記者)
長嶋監督は張本を補強してもらうために、「当時の読売グループのトップだった務臺光雄氏(むたい・みつお)に土下座して頼んだ」(前同)という。その結果、トレードでの阪神入りが内定していた張本は、一気呵成に巨人に入団が決まった。当時、長嶋監督のもとで守備走塁コーチを務めていた黒江透修氏が述懐する。
「“いい選手を取ったな”と思いましたね。張本さんは打撃はもちろん、足も、めっぽう速かったですね。彼の加入で高田(繁)が内野にコンバートされて発奮、選手寿命が延びたんだから、いいことづくめでしたよ」
張本を得た長嶋巨人は、最下位から一転、76年、77年とペナントを連覇。盟主の意地を見せた。
「ハリさんの加入で一番大きかったのは、王さんが復活したこと。最下位に甘んじた年は打率は3割に届かず、本塁打も33本止まりでした。それがハリさんが入るや、発奮して打ちまくり、本塁打と打点の二冠王を獲得しましたから。“V9の燃えカス”を押しつけられた長嶋監督を救ったのは、王、張本の“OH砲”だと言っても過言ではない」(前出の古参記者)
張本氏と王氏は、強い絆で結ばれているという。
「2人はプロ同期。ライバルとして尊敬しあっており、ハリさんは巨人入団が決まったとき、真っ先に王さんに電話している」(前同)
王氏は、そのときの様子を、こう述懐している。
「ハリのあんなうれしそうな声を聞いたのは、後にも先にも初めてだね。“どちらが4番を打つか分からんが、頑張ろう”と言われたよ」
長嶋監督の元に集ったOとH……ただ、両者の来し方は大きく異なっている。
「名門・早稲田実業のエースで甲子園のヒーローだった王さんが、当時としては破格の契約金1800万円で巨人に入団したのに対し、パ・リーグの東映フライヤーズに入団した張本さんの契約金は200万円でしたからね」(球界OB)
プロ野球入りするまでの張本氏の半生は、まさに激動と言うにふさわしい。
「ハリさんは、在日韓国人二世として広島に生まれました。戦時中は被爆も体験しているんです」(前同)
張本氏の自著『張本勲もう一つの人生』(新日本出版社)にはこう綴られている。
〈私の父・張相禎と母・朴順分が韓国の慶尚南道から日本にやってきたのは、一九三九年の春。(中略)まもなく広島市内の大洲町(現・南区大州)に引っ越します。私はそこで、翌一九四〇年六月一九日に生まれました〉
広島で暮らすようになって間もなく父親を亡くした張本氏は、戦時下の食糧難の時代を家族で必死に生き抜いたという。そして、1945年8月6日、米軍が広島に原子爆弾を投下。張本氏は被爆する。
〈気がつくと、真っ赤な色が目に飛び込んできました。おふくろの血でした。おふくろが、私と三歳上の次姉・貞子をかばうように覆いかぶさってくれていたのですが、爆風で飛んできたガラスの破片を背中に受け、その血があちこちに散っていたのです〉(前掲書)
このとき別の場所にいた上の姉は、原爆で全身に負った火傷で帰らぬ人となってしまう。
「ハリさんが近年、原爆の恐ろしさを伝える活動をしているのは、自らが壮絶な体験をしているからです。他にも、貧困や在日韓国人に対する差別など、余人にはうかがい知ることのできない体験をしているわけです」(前出の球界OB)
■「野球選手にならなければ、ヤクザになっていた」
過酷な状況下で、張本氏は野球に出合った。
「スポーツ万能で、特に水泳が得意だったというハリさんですが、地元の中学校には水泳部がなく、野球部に入部したんです。もちろん、すぐにエースで4番。強豪校からも注目されていたんですが、野球の実力は文句なしでも“わんぱくすぎた”ため、進学では苦労したといいます」(前同)
名門の広島商業への進学を希望した張本氏だったが、当時はケンカに明け暮れていたこともあり不合格。松本商業高校(現・瀬戸内高校)の監督に助けられる。
〈些細なことで、よくけんかをしていたのは事実です。それに広島はあの『仁義なき戦い』という映画の舞台になったところです。あのような人たちがなんだか格好よく見えて、よくまねをしてました〉(前掲書)
張本氏は現役時代、「野球選手にならなければ、ヤクザになっていたかもしれない」と周囲に漏らしていたというが、その迫力は広島で培われたものだろう。苦労して入学した松本商業高だったが、野球強豪校への入学を諦めきれない張本氏は、大阪の浪華商業高校(現・大体大浪商)の名将、中島春雄監督に頼み込み、入学を認められる。
「中島監督と当時の巨人の水原茂監督は、シベリア抑留時代の戦友。その縁で、中島監督が水原監督にハリさんを紹介したんです。水原監督は“中退して巨人に来ないか”と誘ったといいますが、家族会議の結果、“高校だけは卒業しろ”と言われ、巨人入りを断念したといいます」(球界OB)
長嶋監督に懇願され、晴れて巨人に入団するまで、そこから20年近くの歳月を要することになる。
現在発売中の『週刊大衆』3月11日号では、続けて長嶋と張本を特集している。