長嶋茂雄vs野村克也vs張本勲、プロ野球レジェンド「血と涙の恩讐60年」 (2/6ページ)

日刊大衆

さらに、母親も子宮がんを患ってしまう。ノムさんは粗末な弁当を同級生に見られるのが嫌で、学校では隠れて弁当を食べていたそうです」(球界関係者)

 そんな中で、野球に出合った野村氏は、高校に進学してプロ入りする夢を描いた。しかし、母親から「中学を出たら働いてほしい」と懇願されたという。「ハリさんも家計が苦しく、兄の援助によって高校に進学していますが、ノムさんの場合も同様で、秀才だった兄が大学進学を断念して、ノムさんを高校に行かせてくれたそうです」(前同)

 しかし、高校に進学しても苦難は続く。「ハリさんの場合は、暴力事件に巻き込まれ、濡れ衣を着せられ甲子園に出場できなかった。ノムさんは、そもそも野球ではまったくの無名校だったので、プロスカウトの目に留まることはありませんでした」(同)

 自暴自棄になった張本氏は一時、ケンカに明け暮れたという。野村氏もプロ入りを諦めて就職を決めたが、野球部長がプロ球団に手紙を出し、野村氏を売り込んでくれた。「興味を持って夏の甲子園の予選を見に来てくれたのが、南海の鶴岡一人監督で、ノムさんは鶴岡さんの前でホームランを打ったんです」(球界OB)

■巨人にコンプレックスを抱き続けて

 野村氏は南海の入団テストに挑戦し、契約金なしの月給7000円でプロ入りしている。1954年のことだった。「当時の銀行員の初任給が6000円弱ですから、決して高い給料ではない。しかも、ノムさんは給与から寮の部屋代、食事代の4000円を差っ引かれ、母親に仕送りもしていたそうですから、カツカツの生活だったはずです」(前同)

 58年に巨人に入った長嶋氏は契約金1800万円、翌59年に東映に入団した張本氏が同200万円を手にしているため、野村氏の境遇が、いかに過酷なものだったか分かる。「ノムさんは1年目シーズン終了後、球団からクビを言い渡されますが、悲しむ母親の顔が浮かび、球団職員に“クビなら南海電車に飛び込む。給料なしでいいから、あと1年やらせてくれ”と頼んだそうです」(前出のベテラン記者)

 そこから、死ぬ気で野球に取り組んだという野村氏。〈練習が終わってみんなが休んでいるときも私はひとり、バットを振った。

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