改元は江戸時代だけでなんと35回!当時は改元ってどう行われていたの?

Japaaan

改元は江戸時代だけでなんと35回!当時は改元ってどう行われていたの?

江戸時代には改元が何回行われたか知っていますか?

その数なんと35回!

江戸時代は1603年~1868年で265年間ありましたから、平均すると一元号で7年と5か月。短いですね。

ご存じの通り元号は今まで漢籍から吉字を選定されてきました。元号は令和で248個目で、初めて国書から採用。

今回は江戸時代縛りで元号を振り返ってみます。

元号に関してはこちらの記事も合わせてどうぞ。

最短の元号は?他国とかぶった元号とは?もうすぐ改元、元号に関するトリビアあれこれ

江戸時代の人気の漢字は?

江戸時代で一番の採用回数は五回の「寛」と「文」。
四回は「元、永、保、延、享、和」。
確かに「享保の改革」って頭にすぐ出てきますもんね。
三回は「安、明、宝、政」。
明暦の大火、寛政の改革・・・などが頭に浮かびます。

江戸時代、落選した元号で多いものは?

採用されている元号では、天保が四回、天明が三回、宝暦・明和・享和が二回とのこと。

天保って、「天保の大飢饉」や「天保の改革」などあまりいい印象がありませんね。4回も落ちていざ採用されたらろくなことが起こらなかったという・・・。

ちなみにお気づきの方もいると思いますが、元号をそのまま天皇の呼称とするのは明治天皇以降のこと。「一世一元制度」が確立してからのことなので、慶応以前の天皇名は元号と全く被っていません。

江戸時代の元号の選び方は?

改元は朝廷か幕府のどちらかが申し入れ、合意に達してから進められました。朝廷で年号勘者を定め数十案を提出させ、公卿の審議を経て天皇に目を通していただきます。

勘者とは、朝廷の諮問をうけ、吉凶などを考慮し儀式の日時や法令等を調査し上申する者のこと。なんとあの菅原道真の子孫が代々関わっていたといいます。

菅原道真像(太宰府天満宮蔵)

朝廷は絞り込んだ数案を幕府に提出。

幕府は老中や儒学者で協議したうえ、最終的に決定しました。といっても形式だけで、朝廷が提案する際にあらかじめ順位付けをしており、幕府は朝廷が一押ししたものを追認することがほとんどでした。

いよいよ元号が決定されると、幕府は江戸滞在の諸大名を総登城させ、新元号を発表。各藩を通じて全国に知らされました。知らせが津々浦々に行き渡るまで一ヶ月近く要したと言います。

実は元号という存在が一般庶民に浸透したのも、この江戸時代から。それは高い識字率が後押しした結果で、庶民は干支と合わせて暦を利用していたとのこと。

江戸では元号を題材にした狂歌や川柳が流行し、「明和」から「安永」に代わった時は「年号は安く永くとかはれども、諸式高くて今に明和九(めいわく)」などと詠まれました。

新しい元号を紙に書き付け売り歩く、号外で金銭を取るような商売も。なかには新元号を間違えたり、改元していないのに改元した、という誤報もあったといいます。

今も昔も改元で一騒動あるのは、変わらないようです。

参考文献:『日本年号史大事典』ほか

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「改元は江戸時代だけでなんと35回!当時は改元ってどう行われていたの?」のページです。デイリーニュースオンラインは、改元元号カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る